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太融寺町

 〒530-0051
 大阪市北区太融寺町(たいゆうじちょう)


 真言宗高野山準別格本山、佳木山宝樹院太融寺に由来した町名で、現在同町の中央部に太融寺がある。

 太融寺町は明治33年4月の町名改正により北野太融寺町となった。それまでは西成郡北野村であり、明治30年に大阪市北区に編入された。

 太融寺は嵯峨天皇の弘仁12年(821)、弘法大師がこの地に来り、鬱蒼たる樹林の中から異香のの薫りを放つ霊木を採り、これをもって地蔵尊、毘沙門天を刻み、その地に寺を草創し、これを安置したのがはじまりと伝えられる。

 その翌年の弘仁13年(822)に嵯峨天皇の行幸があり、天皇よりの念持仏である千手観世音菩薩が下賜された。
 嵯峨天皇の崩御の後の承和10年(843)、天皇の皇子である、河原院左大臣源融公が六条河原院での陸奥千賀浦の塩竈を模して難波の御津より日毎に潮水を汲ませる遊びをなされた折、当寺を訪れ、清和天皇に奏して諸堂を修補し、仁海上人に遺命して、これを七堂伽藍となした。その時、同寺は霊木によって創建された故事により、山号を佳木山と名づけ、源融公の諱とって太融寺と号した。(この時に当宮御本社の前身である神野太神宮も創建された)

 この源融公の子孫の一人が、渡辺綱で、主君の源頼光とともに、酒呑童子、土蜘蛛退治で有名となり、自身も一条戻り橋の鬼(宇治の橋姫)を退治し、その時の太刀である「髭切の太刀(鬼切丸とも)」は現在も京都の北野天満宮に納められている。
 そんな渡辺綱は、この太融寺周辺を拠点に渡辺党を組織し、現在の大川周辺の水運など平安時代には大きな影響を与えた。

 寺領は八町四方に及ぶに至り、かつては「北野の太融寺か、太融寺の北野か」と称されたほどで、東は現在の扇町公園(大門があったといわれる)、南は老松町、北は万歳町近くまでに及んでいたともいわれる。現在の堂山町の堂山の字もこの太融寺に由縁するといわれ、近世までは北野村の各所に「寺山」、「塔の跡」、「堂の後」、、「風呂小路」、「二王門」など地名の字も見られた。

 このようにして寺門は栄えたが、承久の変などで渡辺党の影響力が落ちた事などにも起因すると思われるが、それら兵乱のため荒廃した。これを再興させたのが僧快済であった。後醍醐天皇の建武3年2月1日には攝津吹田荘が同寺の寺領として綸旨があたえられている。
 また、足利尊氏からの寄進状も伝えられており、それによれば、

 当寺は河原左大臣融公の草創
一天不二の霊場也。
心願有るに依て依テ、摂州倉橋の庄を寄付す。
天下泰平を祈り二世安全の願いを遂げんと併欲す。
寄付状件の如し。
 建武元年八月朔日
           尊氏

とあり、北朝方からも南朝方からも尊崇が寄せられていた事がわかる。

 しかし、その後の南北朝の乱(特に暦応元年(1338)の渡辺の戦い)、石山合戦、大阪の陣と戦乱の度に兵乱に遭うものの、江戸幕府の初代大坂藩主として赴任した松平忠明の施策により、西寺町が形成され、市街整備が進められた事によって次第に復興した。

 江戸時代に入って、正徳4年(1714)には鍋島肥前守によって愛染堂が建立された。同寺は大坂三郷をはじめ、遠近各地の信仰をあつめ、毎月21日の大師めぐりや庚申の縁日には多数の参詣者で賑わった。また、太融寺の富くじ興行は有名で、摂津箕面の弁財天の富くじとともに全国的に知られていた。

またこの頃に現在の曽根崎1丁目6のあたりにあった夕日神明宮の門と、太融寺の門とが同じ位置であった事から、二重門とも称されていた。

 この太融寺の境内には淀の方の墓がある事でも有名である。慶長20年(元和元年・1615)に大坂城落城の際、秀頼とともに自決し、その遺骨は東成郡鴫野村の弁財天島に埋葬されていたが、明治10年1月に同地が陸軍営地となったので、淀の方の墓を移そうとする動きがあり、当時の北野村戸長、西尾孫四郎の尽力で、その墓石は太融寺の境内に移される事になった。

 明治13年3月には、自由民権運動の中核的な存在として同寺があり、板垣退助、片岡健吉、植木枝盛らがその指導者となっていた愛国社の第4回大会が太融寺において開催された。会場には114名の総代が集まり、この運動を全国民的な運動に盛り上げ、国家の開設を期し、国会期成同盟を結成させる事になった。

 その後、国会期成同盟は自由党へと発展していったが、秩父事件や加波山事件などが起こり、同党は分裂の危機におそわれ、ついにはその解党をこの太融寺において決議した。同寺は近代政治史の上で重要な決定を行った場所としても注目される。

 現在は既に無いが、太融寺の境内に弁天池という池があり、そのほとりに藤が咲き競って、初夏の頃には遊客が多く訪れたという。その藤の棚の下には藤浪亭という料亭があって有名であった。同じく境内には戸川宇兵衛の「ゆどうふ商」もまた有名で、付近には「オットセイの店」なるものもあり、八のつくごとに昼市も立って賑わっていた。
 その太融寺の南門を西へ突き当たったところに「おならの本家」という芋屋があって、遠方から買いに来る人も多かった。太融寺の東門角には著名な「万種物類卸商」金沢常松が位置しており、太融寺の南東角の三叉路には花屋卯八、通称、花卯の店があり、花屋の辻とも呼ばれた。江戸時代、この付近には植木屋が集まり、牡丹の花が有名であった。これら植木屋は梅田が市街化する明治の頃には池田の方へ移っていったという。

 この太融寺町には明治初年まで綱敷天神社の御旅社であった常安寺こと梅塚天満宮が鎮座していたが、上知令や神仏分離令(廃仏毀釈とも)の影響で破却され、一旦、梅ヶ枝町(現在の西天満6丁目)に一時的に遷され、数年後に現在の鎮座地である茶屋町へと遷った。この梅塚天満宮のあった地こそ、菅原道眞公が愛でられ、梅田の梅の寺の由縁ともなった紅梅樹があったが、これも明治維新の動乱期に国より民間にその土地が払い下げられ、更には戦災によって記録が散逸してしまっており、現在では紅梅樹がどのようになったのかを知る術も無い。しかし、そのあったと思われる場所は近年の研究で、現在の太融寺町の北東、扇町通や専門学校のあるあたりであったろうと推察される。いずれ再び梅田の地に梅塚の紅梅が咲くことを期待したい。

 昭和20年の大阪大空襲ではこの付近は完全に焼け野原となり、このあたりから大阪城が見えたともいわれる。
 その後、復興の槌音目覚ましく、昭和35年10月23日には現在の太融寺の本堂が再建。昭和40年代には町にも多くのビルが立ち並ぶようになった。特に同町内に土建業を営んでいた株式会社ヤマシタ(現在は天神橋5丁目に移転)は、大阪の主要工事の多くに携わり、綱敷天神社の復興にも多大なるご貢献をされ、今も御本社の境内の各所には当時のご代表であられた中野常三郎氏、中野隆雄氏のご奉献の銘が深く残っている。

 こうしてビルの街となった太融寺町は昨今に至っては歓楽街の様相を呈してきており、往時に比して雰囲気は一変し、今では大変賑やかな街となった。

 この町の西北角には昭和55年(1980)から松竹の映画館「梅田ピカデリー」があり、多くの映画ファンを魅了してきたが、平成23年(2011)に大阪駅に大型映画館が出来る事に伴い閉館し、翌年の平成24年からはライブハウスである「梅田クラブクワトロ」、大阪プロレスの新会場たる「ナスキーホール・梅田」、更に翌年の平成25年には池田呉服座が運営する大衆演劇の「梅田呉服座」が開業し、新たな賑わいの場となっている。




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