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堂山町

 〒530-0027
 大阪市北区堂山町(どうやまちょう)

 明治33年4月2日施行の町村編入によって北野堂山町と命名され、のち大正13年6月1日施行の通町名改正によってこの名前になった町域である。
 北は万才町と中崎西2丁目、東は神山町、南は太融寺町、西は小松原町と角田町に囲まれた地域である。

 町名の由来は、堂山町の南に位置する太融寺のお堂があった事に由来するといわれ、古くには「堂の後」などの地名もあった。

この町にはかつて、神山町、万歳町にまで広がる規模で、北野青物市場という市場があった。この市場は「屋根なし野市」とよばれ、今のフリーマーケットのような市場であった。毎年7月15日の当宮の例祭時は、お盆であるので、各地の市場はお休みであったが、ここ北野青物市場だけは営業していたので、この日には近在から多くの人が集まり、凄い賑わいであったそうである。

 市場の中心地は現在の堂山町9番地あたりであったが、北摂一帯の農村から中津川(現在の新淀川)を渡って、市中に入ってくる馬車も多かったので、「牛宿」という牛馬を泊める家が神山町にはあったそうで、市場近くには青龍館という寄席もあった。 大正のはじめ頃に市場にトタン屋根が設けられたが、昭和20年に野菜の統制が厳しくなったのを機に、市場自体廃止された。

 明治時代、この地には屈指の地主、木屋市兵衛の長子で野口栄治郎という人物がいた。野口は演劇道に入り、気骨があり、快男児であったと伝えられ、演劇では堀江栄治郎と名乗って神社で芝居をしていた。この芝居を 大林由五郎(のちの芳五郎)という人物が大変好み、贔屓にしていた。

 のちに堀江栄治郎はキタの大親分となり知られていたが、奈良と大阪を結ぶ大阪鉄道の亀の瀬トンネルの難工事に、土建屋となっていた大林由五郎が従事した際、大親分だが、丁度レンガ屋として工事現場に来ていた栄治郎と偶然出会う。 以来、栄治郎は由五郎の身に寄り添って協力し、土木請負業界の改革を成し遂げていく。

 また栄治郎は、キタの大親分として、ナワ張りを荒らす者には公然と立ち向かい、当時、堂島で顔役であった「出店の又」と、この堂山町にある金台寺という寺院の裏手で決闘を行い、これに勝利するも、騒動の犯人として検挙される。

 明治14年7月、栄治郎は予審免訴となって出獄した。この出獄の翌月が当社の例祭日であった事から、親分の出獄を喜んだ若者が、当社の地車をひきだして大騒ぎをした。これを聞いた周辺地域の顔役は、この地車を縁起のいい地車だと次々と借り入れを申し込み、ついには大阪市中で10日間も曳きまわされたという。
このような男気溢れる男を育んんだ堂山町という地域には、何かしらの活気を呼び起こす気質があるのかもしれない。

 また、この町の北西にある北大阪堂山ビルの中に、平成19年3月、住之江競艇の場外発売所であるボートピア梅田が開業した。全国でも初となる繁華街の真ん中での競艇の場外発売所である事から、今後、堂山町界隈での人の動きが注目されるところである。

 ちなみに、このすぐ近くの阪急東中通商店街の路傍に大黒天の石像がある。元々は小松原町の富国生命ビルのあたりでお祀りされていたものらしく、戦災の荒廃により捨て置かれていたのに心を痛めた堂山町の有志により、現在地に遷されたという。既にお顔の判別もつかないほど古いものであるが、現在も商店街の商店主方の信仰を集め、大切にされている。例年夏ごろには大黒天のもとで神事も行われている。

 そんな堂山町は現在では大変な歓楽街で、昼夜となく賑わっている。



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【堂山町の名所・旧跡】
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