〒530-0056
大阪市北区兎我野町(とがのちょう)
兎我野は兎餓野、菟餓野、闘鶏野、刀我野、都下野、斗賀野とも書かれ、その名のは古事記、日本書紀の時代から登場し、当神社氏地の中でも最も古く、古代においては当神社の氏地一帯(今のキタ・梅田界隈)を兎我野と呼んでいたようである。
現在の兎我野町という町名は明治33年4月の町名改正により新設された町で、近世には大阪三郷の内には入らない土地であった。
この兎我野が史書に登場するのは、前述の通り日本で一番古い書物である古事記、日本書紀であり、この中の神功皇后摂政前記に、「菟餓野に出でて、祈狩(ウケイガリ)して曰はく、「もし事を成すこと有らば、必ず良き獣を獲む」という」とあり、この兎我野にて狩猟を催した記録がある。これは「ウケイ」という一種の占いを狩猟にあてたもので、「これからいい事あればいい獲物が取れますように」と祈ったものである。
このウケイ(誓約とも書く)は何の為に執り行ったかというと、神功皇后の御子である応神天皇(八幡神)の誕生を疎ましく思っていた異腹兄の忍熊王、香坂王のニ皇子が、神功皇后と応神天皇を亡き者にしようと考え、戦いを仕掛けて倒す事が出来るかどうかを、狩りで良い獲物が獲れるか獲れないかで占おうという、古代の神託的要素を含んだ狩猟であった。
香坂王はその狩りをクヌギの木の上から眺めていたが(日本書紀では桟敷から)、神々の意に沿わなかった為、神罰があたり、大きな赤い猪が現れてクヌギの木を押し倒し襲われてしまう。つまりは占いの結果は大凶という事であったが、忍熊王は占いの結果を無視して戦いをしかけてしまい、武内宿禰、武振熊らの軍によってあえなく惨敗。逃走するも瀬田川(現在の琵琶湖近くの淀川水系か)まで追い詰められ、遂に川に投身し、後日菟道川(宇治川)で遺体となって発見されるというのが事の結末である。
このように兎我野は、古くには占いを執り行うような神聖な地であり、地勢学上重要な地であったのかもしれない。
なお、この「菟餓野の誓約」の場所に関しては、この兎我野町の他、兵庫県神戸市灘区の都賀川流域という説もあり、日本書紀の記述の前後を考えると神託により廣田、生田、長田の兵庫県の大阪湾沿岸を抑えている事や、忍熊王らの軍が神功皇后らを待ち構える為に陵墓造成の為と偽って明石あたりに出征していた事などから神戸説が有力であるが、
軍事的観点で考えると、神武天皇の東征の際に長髄彦が陣取ったのは大阪の河内湖岸であったし、いざ戦闘がはじまったとすれば、後ろに山地が広がり逃げ場の少ない都賀川流域よりも、平地の多い淀川水系を中心に戦った方が大和地方を本拠とする忍熊王らには有利であり、実際に忍熊王らの撤退ルートは兎我野→住吉→宇治→瀬田と琵琶湖水系を遡って撤退している事から、当初は淀川水系の川尻である当町を先ず最初に戦陣にしようと考えても不思議ではなく、軍事上は兎我野町説が有力である。また、神功皇后の当初の進軍路は和歌山から直接戦地に向かおうとしており、もしこの時、都賀川周辺に陣取ったまま直接戦闘が始まっていたとすれば、勝算は薄いと言わざるを得ない。
ここからはあくまでも推測であるが、当初、忍熊王らは大阪湾北側から神功皇后らの軍団はやってくると想定していたが、先手を打たれ兵庫の大阪湾岸拠点は押さえられた上に、予想に反して大阪湾の南側から進軍してきたので、急遽態勢を立て直す必要から、まず淀川河口域を押さえたが、誓約に失敗した為、拠点を移して住吉に陣を構え直したと見るべきかもしれない。
ただ、あくまでも推測の域を出ず、いまだにどちらであったかは確定していない。
なお、動物としてのイノシシが文献上初めて確認されるのは、この菟餓野の誓約の段での「赤い猪」であり(大国主尊が騙されて重傷を負った石の猪や、伊吹山の神さまが化身た猪は除く)、大阪城近隣の森ノ宮遺跡からも猪の骨が出土している事から、古代の梅田あたりには猪がたくさんいたのかもしれない。
また同じく日本書紀の仁徳天皇38年7月の条に、天皇皇后とも高台に登って涼を求めていたところ、毎夜兎我野の鹿の鳴く声が聞こえ、その哀調を愛でていた。ところが月末になってパッタリと鹿の声が聞こえなくなり、不審に思っていると、翌日の夕食に出てきたのがその鹿で、その鹿を献上した佐伯部のしわざを恨んで、安芸の渟田に左遷したという話にも兎我野の地名が出てきており、「兎我野の鹿」として有名であった。
昭和には同町内にあった不動寺の境内に「鹿の塚」というものがあったが、現在この不動寺は大阪府豊中市に移っており、寺内にある白鹿堂が仁徳天皇ゆかりの「兎我野の鹿」の名残をとどめている。
この「兎我野の鹿」の話は摂津國風土記逸文にも「夢野の鹿」の名でほぼ同じ内容で記載されていおり、一説には兵庫県神戸市兵庫区の夢野町をその地であるとする文書も見受けられるが、『摂津名所図会』において、夫木抄における藤原公衡の勘違いであるとして、兵庫県説は否定されている。
時代は下がって奈良時代の歌人、大伴家持らが編纂した万葉集の巻11-2752に「我妹子を 聞き都賀野辺の しない合歓木 我は忍び得ず 間なくし思えば」という歌が残っており、この都賀野も、男女和合の樹木とされる合歓木(ネムノキ)と兎我野の鹿の話をからめた作品であると考えられる事から、現在の兎我野町を想定して詠んだ歌と考えられる。往古には哀情ある恋愛を表す歌枕の地であったのかもしれない。(栃木県西部説、滋賀県野洲市説もあります)
また、平安時代の法令集である「延喜式」の臨時祭の中に「凡そ坐摩巫女には、都下国造氏の童の7歳以上の者を取りて充つ」とみえ、『大日本地名辞典(吉田東吾著)』では、坐摩とは中央区の坐摩神社であり、その社地は北区周辺であった事から都下とは兎我野であると推測している。しかし、「都下はツゲとも読め、兎我野を指すかどうかは不明である」ともしている。
しかし、『摂津志』には「兎我野、北至天満北野、南至京橋町、平野町之惣名、座摩社記作都下、又名渡辺」と記されている事から、坐摩神社との関係は密接なものであったの事が推測される。更に『難波旧地考』には今の高津宮の地を兎我野といったという記述があり、古代において兎我野と呼ばれた土地の範囲はかなりの広範囲に渡っていた可能性がある。この広範囲を兎我野と呼んでいた時代、兎我野の地は、特に兎我野庄と呼ばれた時代もあったようで、新羅江庄の後身ではないかとも推測され、中世、渡辺党の根拠地の一つと推測される。
中世から近世にかけては兎我野を「床の尾」と呼んでいた頃があったようで、これは淀川水系の沖積化が進んだ事で、兎我野周辺も次第に泥地が埋まり(梅田の語源)、川にはさまれた地形は動物の尾のように伸びていたと推測され、そこから、トガノがトコノオに転化したものと考えられる。 宝暦年間に製作され現存する当宮の御本社本殿裏にある狛犬には「北床之尾中」よりの奉納と刻まれており、床の尾の地名を残す唯一のものとなっている。
元和元年(1615)、大阪城の落城後、市中に点在していた寺院の区画整理があり、市中防備の意味も込めて寺院をこの兎我野町の南端付近に集め、西寺町として東西一列すべて寺院となった。寺院は今では平和な信仰の場となっているが、戦国時代には織田信長の本能寺に代表されるように、砦のような規模をもつものも少なくなく、いざ西国大名が反乱を起こし、大阪に攻め寄った時、防御拠点であると同時に兵士の宿舎として利用する事も考えられていたと思われる。
近世から近代に入ってからは、北摂一帯の農村から中津川(現在の新淀川の前身)を渡って市中に入ってくる車馬も多かったので、「牛宿」と称する牛馬を泊める家もあった。また、近隣に楢村屋敷、観音寺屋敷、梅が枝新地、菜種御殿などの遊里があった事から、牛馬のみに関わらず、様々な人が集った地であったようである。しかし、それらも先の戦災で全て焼けてしまい、今ではその風景を偲ぶものはまったく残っていない。
この兎我野町では特筆すべき火災が三度あり、
・享保9年(1724)3月21日の妙知焼け。
・天保5年(1834)7月11日の堂島新地の大火。
・弘化3年(1846)11月3日のおちょぼ焼け。
この三度の大火は兎我野町にかぎらず市中全体で大被害を与え、特に堂島新地の大火では兎我野町の寺院の殆どが焼失している。(大坂市中全体での被害でいえば、天保8年(1837)の大塩焼け、文久3年(1863)の新町焼けなども被害が大きかった)
これら大火への備えから、大坂三郷では寛永11年(1634)に、井、川、波、雨、滝の5組の消防組織が生まれ、享保3年(1718)には日本初の消防ポンプである「水鉄砲」も作成されている。
明治40年(1907)まで兎我野町13番地あたりにには目神八幡(目神社とも、正式には若宮八幡宮)という聖徳太子創建と伝えられる小さなお社があり、兎我野町に縁のある応神天皇(兎我野の誓約)、仁徳天皇(兎我野の鹿)などを御祭神としてお祀りされていた。太融寺を創建した際に、当時流行していた目の病に源融公(河原院左大臣)が羅患した際、八幡神のお告げで若宮八幡宮に祈願すると、たちどころに平癒し、喜んだ大臣は「目神」と大書して鳥居に掲額させたといわれる。以来、目神社(めがみしゃ・めじんじゃ)と呼ばれ、時代は不明であるが、京都の御室御所(上皇)よりも神饌料のお供えがあり、神前には菊花の御紋の入った提灯一対が寄せられたという。また庶民が祈願をする際は土細工の鳩をお供えする倣わしがあったという。
しかし、明治40年に神社合祀令により現在は都島区の桜宮神社の末社として合祀され祀られている。
明治後半〜昭和初期に関しては資料類の多くが、昭和20年(1945)の大阪大空襲などで焼けてしまったので、今後資料をとりまとめていきたい。
なお、戦後の昭和30年代にはコンクリート建造物があらわれはじめ、復興が急速に進んでいったが、同時に都市化により、寺院の維持が困難になった事で、郊外へ転出する寺院もあらわれるなど、それまでの寺町としての雰囲気は大きく変わり、現在では歓楽街として知られる町となっている。
兎我野町は現在では神聖な土地としてのイメージもなく、範囲も東西340m、南北200mほどの町域となり、寺院の多くも郊外へ転出したが、今も兎我野町南端の寺町通り沿いには寺町の名残を残す寺院がしっかりと残っており、また菜種御殿や楢村屋敷、梅ケ枝新地などの流れを受けたのか、飲食店街も軒を並べ、梅田界隈の賑わいの中でネオンと寺院との不思議な風景を編み出している。
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