●北野村の寺院について●
この北野村(現在の北野連合、梅田東連合)地域には多くの寺院がある。特に兎我野町の南端に東西に連なっている寺院は、かつて西寺町とよばれ、堀川(現在の阪神高速守口線扇町出口付近)を挟んで東側の東寺町(天満寺町とも)、中央区の下寺町と同じく、大阪夏の陣のあと、松平忠明の大阪市外の再整備の一環でまとめられたもので、当時は戦時の兵舎に転用する事をひとつの目的とされたようである。
しかしその後、太平の時代が続いた事で軍事的に利用される事無く、檀家・地域の人々とともに先祖供養、文化興隆の場として親しまれ、今日に至っている。
現在は歓楽街の中にあり、その歴史を感じとる事は難しくなっているが、一寺一寺みていくと大変深い歴史に驚かされる。西寺町だけに限らず、この北野地域の寺院を一寺ずつみていこう。
あいうえお順
・永正庵(不明)
・圓通院
・円頓寺
・円竜寺(不明)
・寒山寺(移転)
・慶住院(鬼子母神・移転)
・幸松寺(移転)
・光明寺
・金臺寺
・西善寺
・西念寺(不明)
・西福寺
・自香寺
・常安寺(廃寺)
・正泉寺(不明)
・正法寺(移転)
・浄方寺(不明)
・稱名寺(不明)
・夕顔寺
・善覚寺
・善正寺
・善通寺(不明)
・宗金寺(不明)
・太融寺
・大林寺(移転)
・蟠龍寺
・不動寺(移転)
・法界寺
・法住寺(移転)
・法心寺(不明)
・法輪寺(移転)
・本傳寺
・本要寺(不明)
・萬善寺(不明)
・妙香院
・龍渕寺
・龍興寺
・冷雲院
・蓮華寺
・聾引庵(不明)
【永正庵(えいしょうあん)】
曹洞宗崇禅寺の末寺。太融寺町の字稲荷山にあった。釈迦牟尼佛を本尊とする。
崇禅寺十六世月村が安永2年(1773)9月に月村の隠居所として草創された。月村の寂後は尼僧にて相続された。現在は当地に無く詳細は不明。
【圓通院(えんつういん)】
大阪市北区兎我野町7-8
曹洞宗天徳寺の末寺。山号は補陀落山。元和2年(1616)、天徳寺の開山勅持佛心明禅帥龍室秀雲大和尚の開創。如意輪観世音を本尊とする。
天保5年(1834)に堂島新地の大火により堂宇を焼失、その後檀中の協力を以って再建。
圓通院の墓所には赤穂浪士で有名な、大石内蔵助良雄の父親・大石権内良昭と、同じく四十七士の一人、大石瀬左衛門の父・大石八郎兵衛の墓がある。また大阪に川柳を定着させ広めた素行堂松鱸の墓、儒学者で篠崎小竹四天王の一人とされる奥野小山の墓もある。他にも墓地には延命地蔵尊がある。
また、大坂三十三ヶ所観音霊場の第三番北神明の石碑は、同寺の門前に移されている。かつてはこの寺の南西付近に夕日神明宮があった。
【圓頓寺(えんどんじ)】
大阪市北区太融寺町6-12
日蓮本宗。山号は顕本山一乗院。妙法曼荼羅を本尊とする。
元々は天台宗に属し西成郡木寺村(現在の淀川区木川。この木川の木の字は圓頓寺にあった大木に由縁するという)あたりにあった。日蓮聖人が天王寺に参る途中、草鞋の紐を解かれた場所として、知られていた。
元文3年(1738)、寺域が中津川(現在の新淀川)の洪水敷にかかる為、また衰微していた日蓮上人の旧跡を再興すべく、本圀寺日周の弟子日深の主導で、木寺村の庄屋喜兵衛と相談し現在地へ移転し、日深は京都三宮法親王殿下より緋紋白法衣並びに網代乗物を免許せられ、また伏見宮殿下より菊の御紋を許可あらせられ、寺運は隆昌した。十世日應の代の明和元年(1764)に京都要法寺の末寺となった。
北野村の西側は海だった名残なのか昔から近世に至っても湿地帯で、中津の東光院(現在は豊中市に移転)、茶屋町の「萩の茶屋」など萩がよく茂った地であった。ここ円頓寺も北野の萩の寺として有名で、秋ともなれば遠近から風流人が集って来たといわれている。(『郷土研究
上方』に二代目長谷川貞信が描いた「北野円頓寺萩花盛之図』に往時の風情が伺われる) その頃には境内に茶屋もあったと思われる。(『花の下影
幕末浪花のくいだおれ』に「円とん寺萩茶店」の図がある)
湿地帯であるので、鷺がよく集まったといわれ、そこから生まれた落語の「鷺とり」の舞台としても知られている。
内容としてはボロ儲けをしたい男が、夜になると萩の寺に眠りにくる鷺を捕まえて売ろうと企み、夜に円頓寺に忍び込んで鷺を捕まえてみると、あまりに簡単に捕まえられるので、調子に乗ってどんどん着物の帯に鷺の首を通して引っ掛けて捕まえていると、夜が明け、鷺が目を覚まし、一斉に飛び立ってしまい、男も帯に通した鷺に連れられて一緒に飛んでいってしまう。こりゃいかんという事であたりを見回すと目の前に金属製の棒が見え、これにしがみついて何とかやり過ごして、改めてあたりを見るとそこは四天王寺。男のしがみついているのは五重塔のてっぺん。男は腰を抜かした。というお話。この円頓寺については当寺のご住職であられた佐藤英夫氏の『北野の萩の寺 円頓寺物語』に詳しく載っている
【圓竜寺(えんりょうじ)】
現在は当地に無く詳細は不明。
明治5年(1872)の『大阪市中地區甼名改正繪圖』、明治15年の『改正新板大坂明細全図』には不動寺のすぐ北側に書かれているがその他の地図には見当たらない。もしかすると円頓寺の誤記載の可能性もある。
【寒山寺(かんざんじ)】
臨済宗妙心寺派。山号は松雲峰。現在は当地に無く、昭和44年(1969)に大阪府箕面市箕面8-1-3に移転している。今の兎我野町15-5あたり(大半は新御堂筋になっている)にあった。釈迦如来を本尊とする。
寒山寺は、元々は大垣城主の石川忠総が、近江国石山の琵琶湖畔に愚堂東寔国師(諡号は大円宝鑑国師)の高弟、瑞南卜兆和尚を請して、中国姑蘇城外にある寒山拾得の故事にちなむ寒山寺の名を採り開山。
豊臣家滅亡後の寛永9年(1633)に、西寺町に移転。
宮本又次氏の『キタ風土記大阪』によれば、「寛永年間に小浜民部が太閤秀吉の別庵「菜種御殿」の跡に寺を建て、瑞南卜兆和尚を迎えた」とあり、元々滋賀県にあった寒山寺を小浜民部という人の斡旋で西寺町に移ってきたとも考えられるが、このあたりは今後調査を待ちたい。
この寺院は近世心中物を語る上で重要な寺院であった。それは元禄16年(1703)に初演された「曽根崎心中」の中でお初徳兵衛が「あれかぞふれば暁の七つの鐘が六つなりて、のこる一つが…」と数えた鐘があったのがこの寒山寺であった。
また、元文2年(1737)に書かれた並木五瓶作の『五大力恋緘』の中でも、勝間源五兵衛に曽根崎五人斬の血刀をふるわせて、「ありゃ寒山寺の夜半の鐘」と言う場面もある。
この梵鐘は伏見町の森吉の鋳造で哀情ある鐘の音として有名だった。暁鐘成の『浪華の賑わい』によると、「寒山寺の夜更の鐘」として名物であったようである。
この寒山寺の周辺は中世以降には菜の花畑が広がっていたようで、その景観を愉しむ為に遊所として、先にも述べたが豊臣秀吉が別庵を設け、「菜種御殿」と名づけ、盛大な菜の花見を催し、「菜種おどり」に興じたところであった。後世に「蝶よ、蝶よ、菜の葉にとまれ」の歌も、その元歌は「菜種御殿菜種歌」として歌われた、「蝶や蝶や蝶々や止まれや、菜の葉にとまれ、今日は彼岸の春日和」であったといわれる。天保3年(1832)初演の浄瑠璃の一種の清元節の「玉屋(しゃぼん玉屋)」にも似たような一節があり、このあたりの関連性も考えられる。
ちなみに安永2年(1774)の『遊所名中』には既に菜種御殿の名がみえる。当時は価百文と記されている。これに接続して新規に出来た遊所を「北新やしき」といい、曽根崎新地よりかは劣るが相当に繁盛したようである。価花一匁(はないちもんめ)、夜六匁であった。しかし、明治4年11月限り泊茶屋渡世を差止め、翌5年10月に特定地外の遊所廃止によって廃絶した。
江戸中期(1782年以前)に、この寒山寺の裏、長池というところに米屋があり、その米屋を営んでいたのが、江戸後期を代表する文人画家である岡田米山人(岡田彦兵衛または米屋彦兵衛)であった。米臼をひきなが読書し、余技に書画を嗜む彼の姿は大坂市中で評判になっていたらしい。彼の雅号の米山人もこの米屋に由来するものであろう。天明2年ころ(1782)、商人の身で伊勢国藤堂藩に仕える事になり、藤堂藩大阪蔵屋敷(天神橋2丁目)に移り住んだ。
文化14年(1817)2月2日に、易学の天才と呼ばれた、真勢中洲が、この寒山寺に葬られている。この寺町沿いの法輪寺に葬られた観相学の水野南北とともに、「観相の南北、筮易の真勢」と讃えられた。昭和29年に真勢の生誕200年を記念して、汎日本易学協会の大阪支部長であった柴野光謙氏の呼びかけで墓碑の修繕と顕彰標柱が建てられた。また同じく墓地には大坂における徂徠学の首唱者の菅沼東廊の墓もある。
幕末の元治元年(1864)5月20日に大阪町奉行所与力であった内山彦次郎が暗殺された際、その亡骸はこの寒山寺に葬られている。暗殺犯には新撰組の沖田総司らが関ったともいわれている。
また、明治期の漢詩家として知られる石橋雲来はこの寒山寺のはずれに住んでおり、南画家、銅板画家として知られる森琴石の親友であった。森琴石は高垣町(現在の堂山町)の正法寺の一角に住んでいた事から、親しく往来があったものと思われる。著書の『雲来詩鈔』や『雲来吟交詩』は当時の文人や交流関係を知る上では重要な史料となっている。
また詳しい時代は分からないが、おそらく明治時代以降、寒山寺の前に「ぬけ大師」というものがあって、平時は薄暗い路地の両側に仏像や画像をならべ、燈明や線香の煙がたちこめる中をたくさんの群集が太融寺に向かって抜けていた。小規模な門前町が形成されていたようである。
この寒山寺は大塩の乱、先の戦災と羅災を被り、更に戦後になって道路拡張(新御堂筋)の為に前述の通り昭和44年に箕面市に移転した。
【慶住院(けいじゅういん)】
法華宗本門流。山号は経王山。現在は大阪府高槻市市原6-2に移転している。元々は鶴野町4のコープ野村A棟あたりにあった。
濱村鬼子母神として子授け、安産、子育てに霊験あるとして有名で、付近には茶屋や料亭が出来るほど賑わったという。一珠斎国員(歌川国員)の『浪速百景』や、暁鐘成の『浪華の賑ひ』に往時の門前を描いたものがある。
鬼子母神のご縁日である毎月8日には多くの人が集まり、戦後になっても、8日になると鬼子母神をお参りし、次いで角田町の歯神社(これも歯(ハ)と八をかけている)にお参りし、そして阪急百貨店の大食堂でご馳走を食べるというのが楽しみであったという話も残る。
濱村という名からもわかるように、元々この地域は旧北野村ではなく、南濱村に属し、戦前までは南濱町や豊宮町と呼ばれ、当宮氏地では無かったが、昭和53年(1978)以降、豊宮町が鶴野町に合併された際に、地域が梅田東連合地域として編入される事になり、それ以降は当宮氏地と看做されてい為、こちらに記載している。
慶住院はその町会合併前の昭和51年(1976)に高槻市の摂津峡の方へ移転した。
【幸松寺(こうしょうじ)】
日蓮宗本圀寺の末寺。山号は永昌山。現在は大阪府高槻市本町15-15に移転している。元々は野崎町7か8のあたりにあったものと思われる。題目宝塔、釈迦多宝2仏を本尊とする。
延享4年(1747)に日達により開創。明治31年11月1日に大阪市北区本庄浮田町に移転し、更に昭和39年4月に大阪市の都市計画により、高槻市に移転した。
この幸松寺は西寺町の北野村ではなく、川崎村の飛び地内にあったので、厳密には北野村の寺院では無いが、北野村村域と殆ど同じであったので、ここに記す。
【光明寺(こうみょうじ)】
大阪市北区南扇町2-13
浄土真宗仏光寺の末寺。文禄4年(1595)に開創。
北野村の東端に位置し、ここから東の堀川(現在の阪神高速守口線)を渡れば天満であった。
曽根崎心中のお初徳兵衛のお墓があったと伝えられている。また大阪拘置所ゆかりの石碑も残っている。
【金臺寺(こんたいじ)】
大阪市北区堂山町13-3
浄土真宗西本願寺の末寺。山号は量雲山。当地の住人岡本周膳の子善正なる者、天正元年(1573)3月に本願寺顕如法主の直弟子となり、当時を開創。阿弥陀仏を本尊とする。金台寺とも書かれる。
明治24年(1891)2月、北野村屈指の地主であった木屋市兵衛の長子で、堂山町13番地に構えていた木屋市(又は北一)こと野口栄次郎と、当時堂島の顔役であった出店の又一家と争う事になり、当時の裏で大乱闘が起きた。木屋市側の勝利に終ったが、子分数人とともに殺人犯として検挙されるという事件も起きた。
また当時の裏手には天満堀川からの掘割が続いており、この掘割に掛かっていたのが、萬載橋である。
【西善寺(さいぜんじ)】
大阪市北区芝田2-2-28
浄土真宗西本願寺の末寺。山号は扶桑山。住人の了善は本願寺准如法主の直弟子となり、寛永11年(1634)4月に当時を開創。当時は南森町にあった。阿弥陀仏を本尊とする。
後年火災により消失し、安政2年(1856)4月に再建するも、明治四十二年(1909)7月31日のキタの大火で焼失し、大正2年(1913)12月22日に南森町より現在の芝田に移転。度重なる火災の経験から土蔵造りの本堂となっている。
移転直後から梅田の地域開発が盛んとなり、あっという間に市街化し、そして近年ではすぐ西側にグランフロント大阪が出来た事で周辺の雰囲気は一変している。
【西念寺(さいねんじ)】
浄土宗現光寺の末寺。山号は普門山稱名院。現在は当地には無い。今の兎我野町4あたりにあった。阿弥陀仏を本尊とする。
寛正3年(1463)、量誉上人の開創。火災に遭う事3回、檀中の協力を以ってその都度再建せられるも、旧記焼失して寺歴は詳らかにならず。
【西福寺(さいふくじ)】
大阪市北区兎我野町2-3
浄土宗知恩院の末寺。山号は易住山浄土院。幡随意上人の弟子魯念和尚の開創。阿弥陀仏を本尊とする。
魯念和尚は相模国三浦の人で、三浦大介義明の末裔。慶長17年(1612)、幡随意上人は徳川家康の命により九州のキリシタン改宗を指導し、それが終わって、同年二月下旬に大坂に帰り、旧知の家に宿泊していたところ、魯念にこの大阪の地で寺を建立するように申し渡し、魯念は西福寺を開創した。
この西福寺は西山宗因の墓所がある事でも知られる。宗因は江戸前期の連歌師・俳人で、談林派の祖。肥後の人。名は豊一(とよかず)。別号、西翁・梅翁など。里村昌琢に連歌を学び、主家加藤侯没落後、大坂天満宮の連歌所宗匠となった。俳諧では自由軽妙な談林俳諧を興し、門下に井原西鶴などを輩出。編著「宗因連歌千句」など上方文化の醸成に大きな影響を与えた。寛政10年(1798)刊行の『摂津名所図会』には西山宗因の墓が書かれており、既に江戸中期には名所の扱いになっていた事がわかる。ちなみに宗因の妻は狩野探幽の娘である。
また、同寺には江戸後期の大阪画壇で活躍した森周峰、森狙仙兄弟、親族の森徹山、森一鳳の墓もある。特に森一鳳は、藻刈舟図で有名で、「藻を刈る一鳳=儲かる一方」の語呂で商人に縁起が良いともてはやされた。
なお、古地図では現在地よりも南の龍渕寺、大林寺に東西から挟まれた地に描かれている。後年に現在地に移ったものと思われる。
【自香寺(じこうじ)】
大阪市北区太融寺町2-10
浄土宗金戒光明寺の末寺。山号は金界山。元文2年(1737)に智曜比丘尼により開基(施主・瀬田家)。阿弥陀三尊像を本尊とする。
昭和20年5月には米軍による空襲の危険性から、本尊等を大阪府三島郡鳥飼村の長音寺に一時的に遷座され、終戦となった8月になって戻られた。
平成15年になって、老朽化していた本堂等を現在の建物に建て替えられた。当寺では直心影流の流れをくむ剣術の愛好会「直心影流素遊会」を運営。当寺内に稽古場を構え、刀鍛治訪問などの催事にも取り組まれている。
【常安寺(じょうあんじ)】
現在は廃寺。
天台宗。山号は慈雲山。伝承によれば行基の開創。綱敷天神社御旅社の前身。
元々は天神さまがご覧になられたという紅梅があり、その樹下に祠を構えて梅塚天満宮といったが、江戸時代に境内地に観音堂を建立し、寺院となった。明治時代になって上知令、神仏分離令などにより破却された。
現在の茶屋町に鎮座する綱敷天神社御旅社に、江戸時代の社号の石碑が残っており、その横面に「第廿三番 常安寺」と彫られてある。これが唯一残る常安寺の史料である。
常安寺についての詳細は由緒のあらましEを参照。
【正泉寺(しょうせんじ)】
曹洞宗全昌寺の末寺。山号は龍鴻山(『大阪府全誌』には龍鳴山と書かれている)。釈迦如来を本尊とする。現在は当地に無い。まだ未確認であるが、大阪府豊中市刀根山2-4-13にある正泉寺が、この正泉寺ではないかと思われる。
文禄年間(1592〜1596)に京都の伏見桃山において松平伊昌(松平外記)が祖先追善の為に創建せし所で、巨岩呑廊大和尚の開山。二世宗薫の代の元和7年(1621)に現在地に移転。
宝暦6年(1709)6月1日の朝。この正泉寺の南側にあったと思われる藍畑で、鍛冶職
大文字屋 利右衛門の職人、平兵衛と、堂島新地平野屋の遊女小かんの心中死体が見つかった。後に近松門左衛門の『心中刃は氷の朔日』はこの事件を脚色したもの。(この日に初演したともいわれる)
この藍畑の場所の特定の参考としたのは、記録では夕日神明宮近くの藍畑で遺体が見つかったとされており、元禄4年(1691)刊行の『新撰増補堂社仏閣絵入諸大名御屋敷新校正大坂大絵図』にこのあたりを野畠と書かれており、夕日神明宮周辺で他に畑らしきものが見当たらない事から、この正泉寺の南側がほぼ間違いなく心中事件のあったあたりと推測される。
なお、この物語の中で、北野金槌煎餅という煎餅が出てきており、当時の北野村の名物であったとも思われる。
後年、堂宇が荒むに及び、十世探道の代の文政11年(1828)に、檀家筆頭の伊藤氏と相談して再建に着手。十一世面能の代の天保4年(1833)に本堂竣工。同五年、玄関、庫裏も建立。しかし不幸にも同年七月の堂島新地の大火により全焼。 後年に復興し、その後大正時代までは災禍には遭っていない。
創建を志した松平伊昌の墓所も同寺にある。
史料によっては勝泉寺とも書かれている。また「金ピラ」と併記されているものもあり、金毘羅さんとの関係も考えられている。
昭和23年(1948)、関西簿記研究所(現在の大阪学院大学)の臨時教室として本堂で授業が行われた。昭和25年10月に正泉寺仏教会館が完成したのを機会に教室は移転した。
【正法寺(しょうほうじ)】
臨済宗妙心寺の末寺。山号は華嶽山。現在は当地に無く、昭和四十二年(1967)に、大阪府箕面市箕面6-10-1に移転した。
現在の堂山町に吸収合併された高垣町字カイチにあった。厳密には現在の阪急東通り商店街と新御堂筋が交差するあたり(堂山町西端)と思われる。釈迦如来を本尊とする。
正保4年(1647)に愚堂東寔国師(諡号は大円宝鑑国師)の弟子の梅天(梅尺とも)が開創。当時は光立寺村にあったが、五世徳翁の代の宝暦3年5月に北野村へ移転した。
明治31年頃(1898)、帝室技芸員で、南画家で銅板画家としても知られる森琴石の長男の雄二氏が、この正法寺の敷地の一部280坪を借り受け父・琴石の為に居宅を建てた。(それまでの居宅であった高麗橋の家は現在、料亭の吉兆となっている) この屋敷にはバラが植えられており、300種類800鉢に加え、地植え、垣植えのバラもあり、まさに薔薇屋敷といえる邸宅であったという。森琴石は大正10年(1921)にここで亡くなった。その後昭和20年(1945)の空襲で、正法寺もこの薔薇屋敷も全て灰燼に帰した。ちなみにこの森琴石の生家は有馬温泉の中の坊であり、父の梶木源次郎は有馬炭酸水の発見者としても知られている。
前述の通り、昭和42年(1967)に新御堂筋の道路予定地と重なっていた為、正法寺は箕面市へ移転した。
【浄方寺(じょうほうじ)】
浄土真宗仏光寺の末寺。山号は不明。現在は当地には無い。寛永年間(1624-1645)清徹の開創。阿弥陀仏を本尊とする。
五世浄顕の代の元禄15年正月に再興して初めて寺号を稱する。『大阪府全誌』に記述はあるが、古地図等では確認出来ず。ただ、現在の堂山町に吸収合併された高垣町の字高の内にあったという事なので、現在の堂山町西北あたりにあったと思われる。
【稱名寺(しょうみょうじ)】
浄土真宗興正寺の末寺。山号は不明。現在は当地には無い。
『大阪府全誌』によれば、正保年中(1645-1648)に秋山駿河という者が、堺万福寺賢正の弟子となり、名を了閑と改め、興正寺より寺号を受け、天和3年(1683)更に木造の本尊を受けた事が当時の起源。その後、三世圓了の代の宝永6年(1709)に阿波座上通3丁目に移転し、明治15年(1882)12月22日に更に兎我野町へ移転した。しかし古地図等では確認出来ず、どこにあったのかは不明。
【夕願寺(せきがんじ)】
大阪市北区野崎町3-4
法華宗陣門派。山号は護国山。本禅寺十七世妙本院日bの開創。題目宝塔、釈迦多宝の2仏を本尊とする。
天文5年(1536)、西成郡新家村より現在地へ移転。天保5年(1834)の堂島新地の大火で類焼。同年、十三世日唯庫裏その他の建物を再営し、十六世日尊の代の文久元年(1861)に本堂を再建。
この夕願寺も冷雲院と同じく、大正11年(1922)刊行の『大阪府全誌』に「字アドエにあり」と書かれており、古代の安曇江の推定地の一つともいえるかもしれない。
【善覚寺(ぜんかくじ)】
大阪市北区兎我野町15-21
浄土真宗大谷派(東本願寺)。山号は法性山。阿弥陀仏を本尊とする。
天正八年(1580)正月に祐浄の自費を以って地所を買い求めて当地にて開創。寛文六年(1666)の『大坂・天満真宗末寺衆由緒書』には既に在郷の寺院として名前が見られる。当宮所蔵の寛延三年(1750)の古地図にも描かれている。天保五年(1834)7月11日に堂島新地の大火により類焼。その後檀家の協力を以って本堂を再建し、天保10年(1844)に住職の祐玄が私費を以って附属建物を造営した。昭和20年の大阪大空襲の時には堂宇は全焼するも、蔵は残った。その蔵は空襲後、すぐに開けると中のものに火が入る恐れがあったので、冷えてから開けたという逸話も伝えられている。戦後、本堂も復興された。
【善正寺(ぜんしょうじ)】
大阪市北区西天満6-6-20
日蓮宗。山号は法華山。題目宝塔、釈迦多宝の2仏を本尊とする。
開創の年月は詳らかで無いが、明応2年(1493)に三番村(中津周辺)より現在地へ移転。明暦年間(1655-1658)に火災に遭い焼失。その後の寺歴は分からなくなっている。
この善正寺のある西天満6丁目付近は、西梅ヶ町と呼ばれ、北野村の南端であり、明治には才田の地と呼ばれ、常安寺を破却された当宮の御旅社が遷座した町でもある。
【善通寺(ぜんつうじ)】
黄檗宗万福寺の末寺。山号は寶巌山。現在は当地に無い。今の兎我野町16のあたりにあった(戦前の地名では兎我野尾と字名となっている)。釈迦牟尼仏を本尊とする。
行基僧正の開創と伝えられているものの、中世の沿革は不明。廃れていたのを寛永3年(1626)に黄檗宗木庵和尚の法孫月山は、庄屋平右衛門より譲り受けて再興し、黄檗宗の末寺となった。
享保3年(1718)12月に信者の寄付により再建し、更に明治38年(1905)2月25日に本堂、玄関、庫裏を再建した。しかし、第二次世界大戦以降は記録に表れず戦災で廃寺となったものと思われる。
幕末に活躍した川路聖謨がその才能に惚れ込み江戸へ連れていった、佐々原宣明(号は佐々原梅操)の墓がこの寺院にあり、その墓碑を藤澤南岳の父、東ガイが記している(東ガイは梅操の泊園書院時代の師)。宣明(梅操)は22歳で亡くなったが、著作に『大日本通史』15巻、『皇朝資治通鑑長編』3巻、『詩文和歌合集』15巻など、長生きしていれば間違いなく幕末史にその名を残したであろう人物であった。その墓の行方も善通寺とともに分からなくなっている。
善通寺の跡地は、ダンスホール「ワールド」となった。平成8年(1996)公開の映画「Shall
We Dance?」のロケ地ともなったが、平成13年(2001)に閉館。その後しばらく駐車場になっていたが、平成27年(2015)からパチンコ店となった。
【宗金寺(そうごんじ)】
(又はそうきんじ)
浄土宗超泉寺の末寺。山号を不退山木魚院。現在は当地に無い。今の兎我野町5-9あたりにあったと思われる。ただ時代によって地図に記載されている境内地の広さにかなり違いがあるの正確な場所は不明。阿弥陀仏を本尊とする。
宝暦2年(1752)3月に有信他力の寄財を得て不退上人により開創。
明和6年(1769)に、当時の住職である円応上人のもとへ、姉の子である早松が7歳となったのを機に、故郷の近江下笠村から北野村宗金寺に修行に入る。大変な悪戯っ子で、木魚に小便を垂れ込んだり、花瓶に糞を仕込んだりと悪戯が絶えず、11歳の時には伏見屋という檀家の娘と結婚に及び、さすがに円応上人も折檻に及んだが、それが気に食わず江戸を目指して家出するという破天荒ぶりであった。この早松が、のちの文人画家、絵仏師として知られる横井金谷である。横井は近江蕪村と称せられるほどに、与謝蕪村と画風が似ており、非常に奔放な人生を送った僧侶としても知られる。墓所は故郷の宗栄寺(滋賀県草津市下笠町)。横井金谷については『金谷上人行状記』に詳しい。
安政5年(1858)11月11日に火災により堂宇が焼失。後年再建される。大正3年(1914)刊行の『大阪市内詳細図』には寺名が掲載されており、この頃まではあった事が確認できる。昭和30年代に刊行された『最新大阪市街区分図』には寺名が見当たらず恐らく第一次大阪大空襲で焼失したものと思われる。
【太融寺(たいゆうじ)】
大阪市北区太融寺町3-7
真言宗高野山派 別格本山。山号は佳木山。
詳細は太融寺町のページ参照。
【大林寺(だいりんじ)】
浄土宗。山号は松高山。現在は兵庫県宝塚市切畑長尾山13に移転している。元々は今の讀賣新聞大阪本社の西側あたりにあった。
慶長元年(1596)、檀家の協力を以って寶誉上人の開創。享保9年(1724)3月の妙智焼け、寛政四年(1792)5月の北の大火、天保5年7月の堂島新地の大火と3度の火災に遭うも、翌年の天保6年5月に十三世猛誉と檀家と協力して堂宇を造営した。しかし、昭和20年の大阪大空襲で戦災に遭い、現在は宝塚市に移転した。
【蟠龍寺(ばんりゅうじ)】
大阪市北区野崎町4-1
浄土宗金戒光明寺の末寺。山号は感應山瑞雲院。開創の年月日は既に詳らかでない。阿弥陀仏を本尊とする。
元和元年(1615)正月、順應上人が中興再建する。往時は長福寺(長相寺と書かれた文献もあり)と称したが、享保年間(1716〜1735)以降に現在の寺名に改めたと伝えられている。天保5年(1834)の堂島新地の大火で類焼し、堂宇、記録類を失った。嘉永2年(1849)に再建。当時は観音堂を有した。昭和20年(1945)の大阪大空襲では類焼を防ぐために本堂等すべてのどうううの取り壊しを余儀なくされた。昭和41年(1966)に現在の場所に本堂・庫裏を再建した。都心に馴染む近代建築様式の本堂は今日なお斬新な印象を与えている。
なお、古地図などでは冷雲院の西隣に描かれているが、現在は東隣となっている。元々は讀賣新聞大阪本社あたりにあったものと思われる。
【不動寺(ふどうじ)】
真言宗醍醐派。山号は大聖山。現在は当地に無く、昭和41年(1966)に、大阪府豊中市宮山町4丁目7-2に移転した。今のの兎我野町12-19(ホテル法華クラブ大阪)のあたりにあった。弘法大師の開創と伝えられており、不動明王を本尊とする。
『大阪繁昌誌』によれば大師めぐりの第1番とされており、かなり有名な寺院であった。寺伝によれば弘仁年間(810-824)に諸国巡遊していた弘法大師空海が、北野村(当地)で七光の石を発見し、五輪法塔にし、不動明王の梵字を石に刻み、後年、再訪した折に石像を安置し、不動堂としたのがはじまりという。
嵯峨天皇の勅願所ともされたといわれ、このあたり太融寺との関係も考えられる。この寺の境内に「鹿の塚」というものがあって、仁徳天皇の「兎我野の鹿」にまつわるものであったようである。これにちなむ白鹿堂というお堂もあった。大正時代には保育園も運営され、大変活発な寺院であった。しかし残念ながら昭和20年の大阪大空襲の戦災後、都市化に伴い当寺の名物行事であった大護摩法も行えなくなった事から、昭和41年に大阪府豊中市宮山町4丁目7-2に移転した。現在も11月3日には鎮守白鹿霊神祭が執り行われている。
【法界寺(ほうかいじ)】
大阪市北区兎我野町15-2
浄土宗知恩院の末寺。山号は回向山平等院。文禄1年(1593)に、欣西(ごんさい)法師により開創。
文化10年の堂島中町の火災、天保5年の堂島新地の大火により類焼。その後、十六世神誉の代の天保14年(1843)に総檀中の寄財を以って再建した。
江戸時代の近松門左衛門の『曽根崎心中』の「三十三ヶ所観音巡り」の一節に”あだのりんきや法界寺”と詠まれており、俗に他人の恋をうらやみ、妬む事を意味する法界悋気(ほうかいりんき)の語源はこの法界寺の寺号に由縁あるものとも思われる。
現在の堂宇は昭和39年5月に復興されたもの。平成17年から浄土宗大本山の京都知恩寺の第74世法主として、当寺の服部法丸台下が就任されている。
【法住寺(ほうじゅうじ)】
浄土宗金戒光明寺の末寺。山号は護念山三昧院。現在は大阪府吹田市千里山東2丁目19-1に移転している。今の兎我野町7-5あたりにあった。慶長4年(1599)に寶誉了風上人が開創。阿弥陀仏を本尊とする。
元和3年(1618)に西寺町に伽藍を建立した。現在の兎我野町7-25あたり。天保5年(1834)に堂島新地の大火により堂宇を焼失、同八年に再建。しかし昭和20年の大阪大空襲の戦災で再び焼失。昭和46年に大阪府吹田市千里山東2丁目19-1に移転した。
開山上人が霊夢で感得し、難波の砂中から発見したという日限(ひぎり)地蔵尊が長く尊信をあつめてきたが、戦災で焼失し、戦後、黒谷金戒光明寺より下賜された地蔵菩薩像が新たな「ひぎりさん」として崇敬されている。
安永年間の『浪花丸綱目』に三十三番観音札所の第4番として書かれており、大阪新四十八願所阿弥陀巡礼の第1番にもなっている
【法心寺(ほうしんじ)】
現在は当地に無く詳細は不明。当宮所蔵の寛延3年(1750)の北野村の古地図や、明治5年(1872)の『大阪市中地区町名改正絵図』には描かれており、現在の兎我野町5-15あたりにあったと思われる。
唯一他の史料に見られるのは、文政12年(1829)に大塩平八郎の主導で発令された僧侶取締布令で、捕らえられた法心寺の関係者が牢死しているという点のみが現時点で確認出来た法心寺の史料。今後の調査を待ちたい。
【法輪寺(ほうりんじ)】
浄土宗知恩院の末寺。山号は成道山。現在は兵庫県尼崎市武庫之荘4-4-10に移転している。今の兎我野町7-25あたりにあった。法林寺と書かれた史料もある。元和3年(1617)3月15日、寶誉上人の開創。阿弥陀仏を本尊とする。
天保5年(1834)に堂島新地の大火により堂宇を焼失。同7年(1836)に庫裏並びに附属建屋、安政元年に二十世法誉が本堂を、各檀家の寄財を以って再建した。
この寺は、江戸時代中期、日本一の観相家、観相学の大家として知られる水野南北の墳墓があった寺として知られる。水野南北は自身の実体験に基づき、節食によって運が開かれるという節食開運法を得て「南北相法」を確立し、今もなお観相学に多大な影響を与えている。また。ほぼ同時代の易学の大家で、寒山寺に葬られた真勢中洲とともに、「観相の南北、筮易の真勢」と讃えられた。
昭和39年(1964)に現在の尼崎市武庫之荘に移転した。その際に、水野南北墳は京都の金戒光明寺(栄摂院北側の区画)に移された。
(なお兵庫県三田市の鏑射寺にも「水野南北居士」と掘られた墓碑がある)
【本傳寺(ほんでんじ)】
大阪市北区兎我野町14-3
日蓮宗本圀寺の末寺。山号は高照山。文禄年間(1592-1596)に、京都大本山本圀寺第十六世
究境院日ワ辮lの法子である、佛乘院日政上人が現在の地に開創。題目宝塔、釈迦多宝2仏を本尊とする。
元禄、文化、及び天保の堂島新地の大火と三回類焼するも、元禄年間は第三世日威上人、文化年間は第十三世日専上人、天保年間は第十六世日道上人がそれぞれ並々ならぬ努力で再建した。しかし昭和20年の大阪大空襲の戦災でも全焼し、現在の本堂は戦後に再建された。
同寺には未生流の流祖、大空院殿法眼未生翁大居士の墓がある事でも知られ、また新撰組組長、近藤勇の養子であった谷周平(近藤周平、または谷昌武)とその三兄弟の墓もある。谷周平は池田屋事件にも参加している。
【本要寺(ほんようじ)】
真言律宗西大寺の末寺。山号は相應山。愛染明王を本尊とする。現在は当地に無い。いまの太融寺町1-17あたりにあったと思われる。
宝暦六年(1756)11月に僧弘秀により開創。後年尼寺になった。西大寺の末寺。大正3年(1914)の地図『大阪市内詳細図』には見られる。大阪大空襲で罹災し、昭和60年頃、三重県名張市に移った。
【萬善寺(まんぜんじ)】
真言宗高野派高貴寺の末寺。山号は大寶山。現在は当地に無い。開創の年代は不明。延命地蔵菩薩を本尊とする。
永禄元年(1558)3月に真阿の中興より、十一世智傳に至るまでは字西村にあったが、宝暦3年(1753)5月、十二世性海の代に兎我野町へ移転した。明治5年(1872)の『大阪市中地區甼名改正繪圖』に描かれている場所から推測するに、現在の兎我野町2か3あたりにあったと思われる。
【妙香院(みょうこういん)】
大阪市北区兎我野町7-6
浄土宗金戒光明寺の末寺。山号は清風山。元和3年(1617)6月3日、念蓮社専誉上人の開創。阿弥陀仏を本尊とする。
十六世誉魁の代の天保5年(1834)に堂島新地の大火により堂宇を焼失、眼誉智玄の代の弘化3年(1846)閏5月に檀家の協力を得て再建。
同寺の木造兜跋毘沙門天立像は重要文化財に指定されている。現在の堂宇は斬新な設計の門構えが眼に惹く。北大阪七福神の毘沙門天のお寺としても知られる。平成26年には第二十七世新住職の入山儀式である晋山式が執り行われた。
【龍渕寺(りゅうけいじ)】
大阪市北区兎我野町1-3
浄土宗金戒光明寺の末寺。山号は松濤山。慶長19年(1614)2月、傳誉上人の開創。阿弥陀仏を本尊とする。
天保5年(1834)、堂島新地の大火で類焼。安政5年(1858)に十三世進誉と檀越の喜捨財によって再建。西福寺と同じく兎我野町の東端であり、西寺町通りに面した寺院である。
【龍興寺(りゅうこうじ)】
大阪市北区兎我野町3-10
浄土宗金戒光明寺の末寺。山号は法雲山西光院。阿弥陀仏を本尊とする。
享保17年(1732)2月15日に智傳の開創。その後衰退するも文化元年に真阿他力を以って再建。
大正8年(1919)に子供会を開設され、現在はきたの旭ヶ丘保育園を運営されておられる。平成24年(2012)に園舎を建て替えられた。園児の可愛いらしい声が住民の少ないこの町で賑やかに響いている。
【冷雲院(れいうんいん)】
大阪市北区野崎町4-4
浄土宗知恩院の末寺。山号は松景山。文禄4年(1595)、光蓮社霊誉上人義空和尚の開創。阿弥陀仏を本尊とする。
天保5年(1834)に堂島新地の大火により類焼。同12年(1841)十五世禅誉と檀家の寄財をもって再営し、弘化年中(1845-1848)に十六世三誉が更に本堂を再建した。
この地域においては奇跡的にも昭和20年の大阪大空襲の戦災も免れた。昭和41年(1966)に鉄筋造の新しい庫裏を建立した。
現在の冷雲院には浄土宗寺院には珍しく弘法大師堂がある。「大坂円光大師二十五霊場」の第四番札所にも数えられている。ご本尊は恵心僧都源信作とも伝えられており、身の丈五尺にとどこうかという大きな坐像である。
この冷雲院で注目したい点がもう一つあり、大正11年(1922)刊行の『大阪府全誌』によれば、「字アドエにあり」と書かれており、明治20年(1887)の『大阪実測図』以外でアドエの具体的な場所について書かれているのは他に見当たらない事から、古代の安曇江の推定地の一つともいえるかもしれない。
【蓮華寺(れんげじ)】
大阪市北区太融寺町1-4
日蓮実宗。山号は佛生山。もともとは自明院と号し、真言宗の無本寺であったが、明和7年(1770)10月に住持の秀善は後住を、天満東寺町の蓮興寺の十三世隠居日命に譲りしを以って法華宗(日蓮宗)に転じた。それを期に、現在の寺名に改めた。故に日命をもって開祖とする。
文政12年(1829)に大塩平八郎の主導で発令された、僧侶取締布令では、大坂市中の破戒僧侶の多くが捕まったが、この蓮華寺と法聚院からは逮捕者は出なかった。(ここに書かれている蓮華寺が当寺であるかどうかは未確認)
明治44年(1911)2月20日に火災に遭い、腕木門以外を焼失。大正5年(1916)1月21日に再建した。しかし昭和20年の大阪大空襲の戦災で再び焼失。後年再興された。昭和39年からは日蓮実宗となる。
旧池田街道の曲り道に面しており、旧街道の往来者にとっては目印となっていたともいわれる。
【聾引庵(ろういんあん)】
浄土宗西福寺の末寺。現在は当地に無い。元文元年8月に聾引尼の開創。阿弥陀仏を本尊とする。
安政5年(1858)11月11日に火災に遭い焼失。明治42年(1909)11月6日に再建。この聾引庵に関しては『大阪府全誌』に記載されているが、古地図などには見当たらない。兎我野町にあったようである。
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