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神山町

 〒530-0026
 大阪市北区神山町(かみやまちょう)

 大正3年6月1日施行の通町名改称で新設された町域である。北は万才町と扇町2丁目、、東は扇町1丁目、南は太融寺町と野崎町と南扇町、西は堂山町に囲まれた地域である。

 古代には、上町台地から北へと伸びる天満砂堆の西端として海浜に面し、また、東側には後世に大将軍の森と名づけられる松林などの森林が控え、風光明媚な地であったようである。

 古くから陸地のあった事を示すかのように、神山町一帯は大阪駅周辺より50cm〜1mほど高く、当神社を中心にごく小さな丘陵のような地形になっている。また当神社の秋祭の神饌にみられるように、海魚をお供えする事からも古代、海浜に面した地であった事は間違いないようである。

 奈良時代、平安時代には新羅江庄や北野村の名で、東大寺や下鴨神社(賀茂御祖神社)の荘園があった地であり、また当神社の由緒にもあるように、この神山町に嵯峨天皇の御社が創建された経緯などを踏まえてみても、古代、神聖な土地として考えられていたのかもしれない。

 その事を如実に示しているのが、この神山町という地名で、町名の由来は戦前、当神社裏手にあった小山を指した名であったようであるが、この小山こそが神山であり、古代に崇められた神聖な地のひとつであったと思われる。中世には賀茂神社の荘園であったので、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神体山である「神山」との関係も考えられる。一説には小規模墳墓の跡であった可能性もあるといわれる。

 この小山は昭和20年6月1日の大阪大空襲の折、凄まじい爆撃の為、大きく形を変えてしまい、戦後、その残った小山の土を御本殿の盛り土として、今も当神社の神山としてお守りしている。(現在の神山は非公開)

 また、神山町11番地、現在の山西福祉記念会館あたりをから、堂山町、万歳町にまで広がる規模で、かつて北野青物市場という市場があった。この市場は「屋根なし野市」とよばれ、今のフリーマーケットのような市場であった。毎年7月15日の当宮の例祭時は、お盆であるので、各地の市場はお休みであったが、ここ北野青物市場だけは営業していたので、この日には近在から多くの人が集まり、凄い賑わいであったそうである。
 市場の中心地は現在の堂山町9番地あたりであったが、北摂一帯の農村から中津川(現在の新淀川)を渡って、市中に入ってくる馬車も多かったので、「牛宿」という牛馬を泊める家が神山町にはあったそうで、市場近くには青龍館という寄席もあった。 大正のはじめ頃に市場にトタン屋根が設けられたが、昭和20年に野菜の統制が厳しくなったのを機に、市場自体廃止された。




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