氏地(うじち)とは
氏地とは、氏神さまからの御恵、御恩を受けている氏子の住む、もしくは働いている地域の事で、この氏地内にある者は知らず知らずのうちに氏神さまからの御恵を頂いているといいます。
当神社の氏地は旧北野村と呼ばれる地域で、現在は右記の町名が当神社の氏地にあたります。
※ これら各町の説明に関しては、北区史、キタ〜風土記大阪、大阪市史、大阪の町名、大日本地名辞書、北野のあゆみなどの書籍を参考資料として用いております。 |
北野村(キタ)について
当宮が正暦四年(西暦993年)に北野(喜多埜)天神社という社名を称するようになった頃から、当地周辺を北野と呼ぶようになり(一説には当社創建の頃からの既に喜多埜という名称があったとする)、いわゆる大阪の繁華街である「キタ」という名称の語源にもなったと伝えられている。北野村はこの当神社の社名がその名の興りと考えられている。古くは摂津國西成郡に属し、大阪三郷のはずれの村域としての地域であり、文献によっては「北埜」と書かれているなど、大阪市中の北辺の扱いであった事が分かる。
この「北野」の名前の由来には諸説あるが、当神社御祭神の嵯峨天皇のお好きだった京都、北野の地からとったという説と、同じく当神社御祭神の菅原道眞公をお祀りしている京都の北野天満宮から、御神霊を勧請したからという説、または唯単に江戸時代の大阪の北の方にあったからという説など色々あるが、古くには「喜多埜」と書いた事から、まだその由来を考えるには後世の研究を待ちたい。
この北野の初見は、中島崇禅寺領目録「福島村 平田分」の中に、「北野村」と見え、また「親長卿記別記」にも応仁の乱で疲弊した河合神社(現在の下鴨神社摂社河合神社)の為に賀茂祭の費用を北野村が負担したという記述が見えるなど、古くから開けていた地域と考えられる。
慶長10年(1605)摂津國絵図に村名がみえ石高748石余。元和元年の摂津一國高御改帳では858石余、延宝5年(1677)検地で852石余。元和元年から5年まで大坂藩松平忠明領、以後幕府領として一貫したと考えられる。
村内には青物市場があり、北野の市場として知られていた。この市場へ物資を運ぶ為の水路がところどころあり、その水路の1つにかかっていた橋が万才町の萬載橋と伝えられ、また現在の北区中崎町の旧名のひとつに舟場町というものがあり、これも当時の水運に関わる土地であった事が推測される。
この北野村は畿内から流れ込んでくる人々の集うところとして文化初年には茶屋株30、風呂株2、煮売屋株5、旅籠屋株3が認められた。幕末には大坂三郷続きの土地柄として日雇、賃稼がかなり増加していたらしく、慶應2年(1866)5月には打毀しが起こっている。
北野村の南端が寺町筋に接していた事もあって、太融寺の他、多くの寺院が北野村東西にが広がり、大坂三郷の外れであったのにも関わらず、池田街道などの交通の要衝でもあった事から、江戸時代には当神社の宮座衆を筆頭に盛んに村開発が行なわれていた。
明治七年に梅田駅が開業すると、北野村はそれまでの田園風景から一変し、都市化が急速に進み、大正年間には北野村の地名も現在の大阪市北区○○町となり、北野村の名称は消える。しかし、現在もこの地域を指して北野地区と呼ばれる事に往古の北野村を懐古させる。 |
梅田について
梅田の地名については古来より諸説があり、梅田宗庵という人の所有地であったという説や、池沼を埋め立てて田んぼにした事から名づけられたとういう説、また、当社においては、元々梅田は埋田という地名で、後世になって、語義が良くないという事で、当社、御本社の南に位置した「梅塚」の字をとって梅田と改名したと伝わっておりますが、あくまでも一説の一つであり、梅田の名の由来はいまもってハッキリとは分ってはいません。
しかし、埋田という文字が梅田の語源とする説には、史料による補足があり、寛正二年(1461)の中島崇禅寺領目録「そねざき平田分」の中に、「埋田之内角田三百歩」とあり、これが梅田(埋田)の初見とされ、同じく記述のある角田は現在の角田町の事であると言われています。あくまで仮定の段階ではありますが、埋田が梅田の語源の一つであると考えられます。
現在の梅田は狭義で言えば、現在の梅田1丁目から3丁目がそれにあたりますが、多くの方はいわゆる「キタ」という地域を指して梅田と呼ぶことが多いようです。これは、先の一説を踏まえるならば、この地域一帯が元々埋め立てた田畑であった為、その埋め立てた一帯を指して今も梅田と呼んでいるのかもしれません。
梅田の名は寛正二年以後には、元和元年(1615)の市街整備の折に大阪七墓の一つとして梅田墓地として明確にその名が見られ、また梅田堤とよばれる田圃で行われた「牛の薮入り」という行事などに名が見られる。
明治七年に梅田駅が開業すると、それまで「ドタ」と呼ばれた泥田だらけだった梅田は一躍経済の中心地として発展を遂げ、今に至っている。 |
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※ 町名の順番は例祭での渡御順です
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