〒530-0018
大阪市北区小松原町(こまつばらちょう)
明治33年4月2日に施行された町村編入によって北野小松原町として新たに成立し、のち大正3年6月1日施行の通町名改称によって小松原町となった。 北と西角田町、、東は堂山町、南曽根崎に囲まれた地域である。
この地にはOSビル、富国生命ビル、阪急小松原ビル、チェスタービルなどのビル群と、阪急東通商店街が東西に貫通し、大変な賑わいをみせている。
町名の由縁は不明だが、おそらくは当社の由緒にある七本松や大将軍の森などにみられる松林からの名であろう。
この地には明治年間、小林授産場があった。これは大阪の大侠客、小林佐兵衛が明治18年12月19日に、病人、身体障害者などを収容し、身体の健全な者には、それ相当の職業を教える為に設立したものである。
創立時の明治18年の収容人員は男30人、女160人の計190人であったが、26年には男227人、女70人の計397人の多数にのぼった。これより先、佐兵衛は明治6年消防請負制ができたころ、北区消防組の組長となり、火事で焼き出された老人、子供を自宅に収容したり、明治15年に幕府から大阪府に受け継いだ粉河町の「お救い所」の仕事も引き受けた。このため多人数の救民を収容出来なくなり、この小松原町に広大な収容所「小林授産場」を設立したのである。 これは明治期の大阪における社会事業のはしりであった。
この頃の佐兵衛のエピソードに「キタの大火」と呼ばれた大火事の際、現在の大阪天満宮では火災から御神体をお守りするため、当時中ノ島にあった豊国神社への緊急の御遷御の用意がされていた。しかし、大阪天満宮へ火の手が伸びていると聞いた佐兵衛は、すぐさま天満宮に飛んで行き、御本殿の屋根に濡れた筵(ムシロ)を敷き詰め、延焼から救ったという話がある。
日頃から、氏神であった当神社への崇敬の篤さから、同じ天神さまへ火難が及ぶことを何よりも危惧した佐兵衛の暖かいエピソードである。このように佐兵衛は明治期における北区の福祉に発展に大きく貢献した人物であった。
昭和37年2月21日。後に「小松原の大火」と呼ばれる火災で、小松原町にそれまであった小店舗の多くが焼け出された。同じ東通商店街の中でも、堂山町には今でも小さな店舗が多いが、小松原町には大きなビルが多いのはこの大火の後の再開発の為である。
その小松原町では現在、阪急東中央通商店街のアーケードが改装されたこともあって、都会的な雰囲気の町となっており、平成22年に開業予定の新しい富国生命ビルは梅田の新名所となるに相応しいデザインのビルとして注目されている。
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