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あらまし E
@ 綱敷天神社の創建
   嵯峨天皇の御廟、神野太神宮
A 菅原道眞公と白太夫
    菅公の生い立ち
B 菅公左遷
   梅塚と白江氏
C 喜多埜天神の建立
  神野太神宮と梅塚天満宮の合祀
D 戦国時代の動乱
    南北朝から大阪夏の陣
E 江戸文化の隆盛
   寺子屋の普及と天神さま
F 明治維新と綱敷天神社
   上知令と御旅所梅田の変容
G 太平洋戦争
   本殿の炎上、御神体の避難
H 戦災からの復興
   焼野原から崇敬者と共に
I 現代の綱敷天神社
   大阪梅田、キタの大神さま

江戸文化の
隆盛

大坂城落城後の市街整備

 大坂城の落城後、江戸幕府は徳川家康の孫にあたる松平忠明を大坂城主にあて、市街整備に乗り出します。この時に、当神社の氏地である兎我野町など東西に寺町が形成され、梅田墓地などの墓地の整備、灌漑事業、道路事業などめまぐるしく街が変わっていきました。
 この時、当神社の地域は大坂三郷(北組、南組、天満組)から外れた郊外として扱われ、平安時代からの境内地をそのまま残すことが出来ました。


寺請制度と常安寺

 しかし、江戸幕府のキリスト教に対する政策により、檀家制度が設けられ、日本人は全員どこかのお寺の檀家にならねばならなくなりました。神主であろうとお寺の檀家となる訳です。多くの神社の場合、神仏習合の歴史からか、さほどの違和感なく檀家となったようですが、当神社に奉仕する白江氏は平安時代からの神主である為、檀家という制度には反対の思いであったようです。しかし、幕府の政策には逆らえず、苦肉の策で、梅塚天満宮の地にあった行基菩薩の小祠を梶井御門跡(現在の三千院)に従い天台宗慈雲山常安寺という寺院の形で創建しました。当神社の祠職は皆、この寺院の檀家という扱いになったそうです。
その後、江戸時代中頃の文書に町民による観音堂再建の文書もある事から、当初は仕方なくという形で創建された常安寺も、いつしか地域に根付いた信仰の場となっていたようです。


江戸文化の隆盛と当社の活動

 その後、大坂は天下の台所と呼ばれるように、経済の中心地となり、当神社においても隆盛を迎える時期となります。
 元録十五年には『菅家聖廟伝』という書籍を発行し、享保元年には御社殿造替、享保十四年には『喜多埜村天神宮綱敷御影略縁起』を著すなど、文化面での活動が活発になってきました。


宮座と白江氏

 また、この江戸時代の当社において重要なものに宮座制度というものがあります。これは、「座」と呼ばれる一種の地域の共同体の一つで、宮という名からも分るとおり、神社における神事奉仕の共同体を指します。
 当神社においては、世襲祠官家である白江家がこの座をまとめており、度会春彦の孫6人から神事奉仕勤めた事に由来し、6人制の宮座で、西白江、東白江という流れがありました。
 このように、神社の文化面、奉仕者の面においても充実した時代であり、おりからの文化の隆盛期と合い重なり、また、寺子屋の普及により、学問の神様として慕われる菅原道眞公を崇敬し、多くの寺子屋よりの寄進がありました。最高期には180ヶ所以上あったと伝えられています。


白太夫(度会春彦)

 さらに、当神社の由緒や大坂近辺の時事関連に元を発していると思われる菅原伝授手習鑑などの芸能において、白太夫こと度会春彦に注目があつまり、度会春彦の子孫である白江氏に対し、神職として御奉仕願いたいという御願状が届き、江戸中期頃、全国の新たに創建された天神社の神職として幾人か招かれた時期もあったと言い伝えられています。
 ちなみに、白太夫の存在は架空であるとするとの声もありますが、当社における白太夫に関する伝承は菅原伝授手習鑑が執筆される以前の、菅家聖廟伝の編纂期には既に知られていたといわれ、当社においては白太夫の伝承は当神社由緒に端を発すると考えております。


【あらましEの内容】
・落城後の市街整備
・寺請制度
・江戸期の当社の活動
・宮座と白江氏
・白太夫

【関係人物】
・菅原道眞公
・度会春彦


【その他】
・梅塚天満宮(御旅所)
・太融寺







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