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萬載橋

 御本社の境内に鎮座します喜多埜稲荷神社の参道の両脇に小さな石橋の欄干があります。

 これは萬載橋(まんざいばし)と呼ばれる橋の欄干の名残で、安政二年五月五日と文字が見えることから、江戸末期に作られた石橋で、現存最古といわれる浪速八百八橋の遺構です。

 この橋は元々は、御本社のある神山町の北、万歳町との境あたりに架橋されていたといわれ、旧池田街道(能勢街道、西国街道とも)沿いにあった北野青物市場(江戸末期から昭和初期まであった市場)へ物資を運んだ堀割の水路に架橋されていたと考えられています。
(古老の話によれば、現在の新田ふとん店さんのあたりにかかっていたといわれていますが、何分にも資料がなく、正確な位置までまでは残念ながら特定出来ていません)

 いまでこそ、梅田は都心部の為、小川や堀などはどこにもありませんが、江戸時代には殆どが菜の花畑であり、至る所にその為の用水路や運河が設けられ、当宮所蔵の「北野村領境総絵図」にもあちこちに水路があった事が描かれています。

 余談ですが、それらの名残として、万歳町より少し北、現在の中崎西界隈は舟場町(ふなばまち)という地名が戦前にはあり、中津川(現在の新淀川)、または堀割(天満堀川)からの支流が物資運搬の水路として利用されていたようです。(灌漑用水としても用いられていたようです) 

 橋名の由来に関しては諸説あり、古老の話によれば、「萬の米俵を載せてもびくともしない橋」という説と、その昔、「大和萬歳(千秋萬歳とも)」という言祝ぎの伝統芸能があり、お正月には街角や家々でで話芸を披露したといわれ、その萬歳が北野村で披露されたのが、この橋だったのではないかとする説もあります。(ちなみに伝統芸能の萬歳は、現代のお笑い芸能の漫才の下地にもなったといわれる) 今のところはどちらも推測の域は出ません。

そう言った訳で、橋そのものの由来は分かっていませんが、史料等によると昭和初期の段階では万歳町の町名はこの萬載橋に由来するとされており、町名の由来なる程、親しまれていたものである事が分かります。

 この橋には奉納された方のお名前が今も残っており、それによれば、

 米屋政七
 花屋卯八(花卯)
 大和屋政治郎
 播磨屋正蔵
 河内屋清兵衛
 吉田屋善次郎
 平野屋兵次郎
 萬屋清八
 丹波屋原右衛門
 嶋屋新七
 植木屋庄助
 北風○兵衛 (○部は欠損)
 醤油屋徳兵衛

の方々のお名前が刻まれています。 そのうち、「花屋卯八」は、現在の太融寺さんの東南角にあった花卯というお花屋さん事で、当時、北野村は植木や園芸で有名な土地柄であり、特に牡丹や菊に関しては大阪有数の取扱所でした。それを唯一いまに伝える遺構ともいえます。

また、「北風」というのは恐らくではありますが、北前船の北風家に関わる誰かを指すものと思われ、北野村の名産でもあった菜種を、北風家が遠く北海道まで北前船で運んでいった名残なのかもしれません。ただ、この事に関しては憶測の域は出ません。
しかし、それ以外の屋号をみても、当時の北野村の様子が分かる貴重な資料ともいえます。

 この萬載橋は小さな橋ではありますが、文献にも登場しており、明治17年(1884)に刊行された、『浪華名所ひとり案内 橋づくし』の堀割の項で萬載橋として記載されており、浪速八百八橋の一つとして認識されていた事がわかります。

 そんな萬載橋ですが、明治32年(1899)8月に、天満堀川が改修された頃か、その後ぐらいの時期に取り外されたようで、昭和3年に撮影された御本社の境内写真を見ると、御本社北側にあった公園内に既に萬載橋の欄干が移されてあります。恐らく昭和3年以前に市街化が進んだ為か、堀割そのものが使われなくなり、埋立てられ、橋も破却されて公園へ欄干のみが移設されたのではないかと思われます。 そして、戦後、公園が民有地になった為、当神社へ移設され現在に至っております。 

 なお、その移設の際に間違えたのか、お稲荷さんに向かって右側の欄干の設置が逆になっております。 本来、漢字の橋名が刻まれた方が入口(起点・本)、ひらがな、または仮名で刻まれた方が出口(終点・末)となり、神道では御神前の方が上位ですので、漢字の方がお稲荷さん側になければなりませんが、恐らく、見えにくくなるので、石工の方が気をきかせて、皆さんにも見えるような形にしてくださったのかもしれません。 ちなみに、仮名で書かれた方の橋名は「万さいはし」と刻まれており、濁点がありません。これは、堀割(水)が濁らないようにという願いを込めたものです。

 余談ですが、昨今、一つの謎として考えられているのが、この萬載橋がなぜ石橋で作られたかという点で、これまでは運輸の為、丈夫な橋が必要であったという説で落ち着いておりましたが、この萬載橋の架橋の前年に、安政南海地震が発生しており、津波が大阪にも押し寄せていた事から、川や堀割を遡った津波が、この北野村にもやってきて、田地民地には被害は無かったものの、津波の影響をまともに受けたそれ以前の萬載橋の橋脚は倒壊した為、翌年、頑丈な石橋に架け替えたのではないか、とも考えられています。あくまでも憶測ではありますが、街中であるからと安心はせず、防災意識を持つという意味では、心に留めておかねばならない事なのかもしれません。

 平成24年4月。喜多埜稲荷神社の本殿復興50年を記念して、整備事業を執り行ない、その中で、萬載橋の欄干に挟まれた参道を、石畳に敷き替え、石橋の雰囲気を再び取り戻しております。




【萬載橋へのご案内】
〒 530-0026
大阪市北区神山町12-5
綱敷天神社御本社内
06-6361-2887

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