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太平洋戦争 |
梅田の都市化と賑い
明治時代から大正時代を通じてこの梅田一帯は大きく様変わりし、それまで北野村と呼ばれた名称もいつしか消え、大阪市北区○○町となり、人口も急増しました。そんな中で当神社は町の氏神さまとして慕われ、特に神山町の御本社付近には北野青物市場なども開かれ、遠近から多くの人々が集まり祭礼では特にその華やかさを増しました。
そんな頃のエピソードに、キタの大親分としてしられていた野口栄治郎(堀江栄治郎とも)が、御本社近所の堂山町で決闘し、その罪で収監され、明治十四年七月に出獄かなった日が、ちょうど当神社の例祭日であり、それを喜んだ子分が当神社の地車(だんじり=大阪特有のお囃子の屋台)を曳き回し、大騒ぎをしたのを聞きつけた周辺の人々が、縁起のいい地車だという事で、神社の例祭が終わっても市内を走りまわし、ついには10日間も曳き回したというエピソードが伝わっている。それほどのエネルギーに満ち満ちた当時の梅田の様子が分かるエピソードである。
太平洋戦争
しかし、そんな平和の時代はつかの間で、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃から大東亜戦争、第二次世界大戦と戦争は拡大し、いよいよ日本本土への爆撃が本格的になった昭和二十年六月一日
、いわゆる大阪大空襲により、社殿をはじめ氏地全域がほぼ炎上しました。
その当時を知る古老の話では、当神社周辺は爆撃最も凄まじく、本殿裏にあった神山(小山)も爆撃の為、吹き飛んでしまったそうです。
かように、凄まじい戦争の爪あとは、当神社に残る狛犬の溶解跡をみても明らかです。
当社の戦災
しかし、根本神宝である、綱敷の御影と御綱は空襲の始まる前に御本社境内の地下数メートルまで掘り下げた穴に埋め隠し、戦後神主、氏子が復員してから掘り出してみると、凄まじい爆撃にも耐え抜き無事でした。
また、当神社の飛び地末社である、歯神社周辺は、歯神社の神さまが戦災をも歯止めされたのか、全焼を免れ無事でした。
復員された氏子崇敬者の人々にとって、心の拠り所であった氏神さまの御神体が無事であったことは何よりの励みになったと、当時を振り返って昔を知る人は皆仰られます。
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【あらましGの内容】
・都市化と賑い
・太平洋戦争
・当社の戦災
【その他】
・御綱
・御影
・歯神社
・北野村
・戦災の狛犬
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