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あらまし F
@ 綱敷天神社の創建
   嵯峨天皇の御廟、神野太神宮
A 菅原道眞公と白太夫
    菅公の生い立ち
B 菅公左遷
   梅塚と白江氏
C 喜多埜天神の建立
  神野太神宮と梅塚天満宮の合祀
D 戦国時代の動乱
    南北朝から大阪夏の陣
E 江戸文化の隆盛
   寺子屋の普及と天神さま
F 明治維新と綱敷天神社
   上知令と御旅所梅田の変容
G 太平洋戦争
   本殿の炎上、御神体の避難
H 戦災からの復興
   焼野原から崇敬者と共に
I 現代の綱敷天神社
   大阪梅田、キタの大神さま

明治維新と
綱敷天神社

明治維新の影響

 時代は変わり、尊皇攘夷の嵐の吹荒れる中、当神社も時代の変革に流されていきます。
 明治維新によって、神社には大きな変革がありました。一つは神仏分離令、もう一つは上知令です。
 神仏分離令はいわゆる廃仏毀釈運動といわれるものの発端となった法令で、それまで、江戸幕府の政策により神社と寺が密接な関係にあったのを、神社、寺院として独立させることで、江戸幕府の旧体制を改める意味もありました。


上知令による社地没収

 当神社では檀家制度の為に創建した常安寺を破却し、元の梅塚天満宮へと戻るものとばかり思っておりましたが、明治四年と八年に施行された上知令により、境内地を除く神社の社地没収という法令が施行されてしまいます。
 この法令により、当神社は運営基盤であった知行地を失ったばかりか、菅原道眞公と最も縁深い梅塚までをも失ってしまいました。
 戦後、国家神道という言葉が使われるようになってから、戦前は神社は恵まれていたというような事を言う人が今もおられますが、実際のところ国によってお供えの為の作物を作る田畑や、それに従事する人々の土地が一方的に奪われた上に、勝手に管理された悲しい時代というのが本当の姿です。
しかし、別の面で見れば、それまで仏教や因習、俗習が交じり合っていた神社が、純粋な神道信仰の場として確立された訳であり、その動きは江戸時代の国学に端を発する事から、時代の流れであったといわざるを得ないのかもしれません。


御旅社の遷座

 この上知令により失った御旅所は、急遽、翌明治5年に梅ヶ枝町(現在の西天満6丁目、阪急交通社ビル周辺か)に移されました。これは当地の崇敬者の方々らが、宿無しでは天神さまがお困りになられるだろうと、地域の方々と話し合い、一時的にお鎮まりになられる場所を設けて下さったものであり、当時の宮司はこの篤志に涙したといいます。
 そして、数年後に現在の茶屋町、芝田町の住人から、今後発展する当地の氏神様として天神さまをお迎えしたいと、土地の寄進があり、現在の地に御旅所は移されました。
 この時、梅塚天満宮として信仰されてきた御旅所を、祭礼の時だけに臨時に設ける普通の御旅所と同じ扱いにしては申し訳ないという意見から、本格的な社殿も建立し、境内地も整備され、その規模は一般的な神社と同等のものとなりました。ここに当時の茶屋町の町衆が、いかに天神さまをお迎えすることに対し喜んでいたかが想像できます。

こうして茶屋町に移ってきた御旅所は、普通の神社に相当する規模である為、小さな祠のような一般的な御旅所と同じ呼称では語弊がある為、当神社では御旅所ではなく、正式には「綱敷天神社 御旅社」としました。しかし、長年「御旅所」として呼び倣わされてきたので、現在も通称は御旅所と呼ばれております。

ちなみに、この茶屋町は明治34年に梅田駅が開業するまでは「菜の花や 月は東に 日は西に」と与謝蕪村が歌ったような、のどかな田園風景が広がっていたようですが、明治維新以後の近代化の波を受け、徐々に梅田一帯は近代都市大阪の中心地として、大きく変わっていきます。


歯神社を末社に加える

 この時期に、角田町に鎮座する歯神社を当神社の末社に加えて欲しいと地元住民より申し出があり、改めて社殿を建立し、綱敷天神社飛地(とびち)末社として加わりました。この頃は、小さな神社は御神霊を大きな神社に移してあとは潰されるという神社整理が全国規模で行われた時期であり、地元の角田町周辺の産土神さまとして信仰された歯神社をなくしたくないという住民の思いを受けてのものだったようです。




【あらましEの内容】
・明治維新の影響
・上知令
・御旅所の遷座
・歯神社を末社に加える

【関係人物】
・菅原道眞公


【その他】
・梅塚天満宮(御旅所)
・梅ヶ枝町
・茶屋町





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