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綱敷天神社の創建
神野大神宮 |
綱敷天神社草創前期
古代、この大阪の地の大半は海であり、大阪城の方から北に伸びる上町台地、天満砂堆などの土地以外に陸地はありませんでした。
現在の東大阪方面一帯も河内湖と呼ばれる湖であり、大阪湾と河内湖に挟まれた古代大阪は、天の橋立のように細長い形をした台地でした。そのような地形の為、古代の大阪では、大変治水に悩まされたようです。
それを解消すべく難波堀江(現在の大阪市役所の東側を流れる大川にあたる)の開削を詔した御方が、仁徳天皇であり、その御代を言祝いで、日本に漢字をもたらした渡来人の和邇吉師博士が、この大阪で「難波津に咲くや此の花冬籠もり今は春べと咲くやこの花」と詠んだといわれます。
この時詠まれた「この花」とは梅の花とされ、古代大阪は既にして梅と関わりのある地であったようです。また、奈良時代の天平16年(西暦744年)には聖武天皇の行幸があったと考えられ、広大な松林をご覧になられています。
このように、天の橋立のような地形に、梅の花薫り、松林なびく、風光明媚なところであったようで、古代より天皇皇族をはじめ貴族がよく訪れた地であったようです。
嵯峨天皇の仮殿
その中に当神社の御祭神であらされる嵯峨天皇もおられました。
嵯峨天皇は何事にも意欲的な方で、御生涯に度々旅行などされ、近畿各地にその御事蹟を残されておられます。
当社由緒によれば、弘仁13年(西暦822年)「嵯峨天皇兎餓野に行幸あらせられて当地に一宿を過ごさせ給いしことあり」とあり、当地に御行幸され、当神社のある地で仮殿を設け一泊されたようです。この行幸は前年に嵯峨天皇の御勅願で創建された太融寺に関するものであったと考えられます。
また、この年に皇子の源融公もお生まれになられています。この源融公とは嵯峨源氏の始祖であり、自邸の六条河原院には東北の塩釜の浦の塩田を模したものを作り、難波から海水を運んで、その風情を楽しんだといわれています。
この太融寺のある地域は昔は海浜に近く、このあたりから海水を汲んで京都にまで運んだのかもしれません。ちなみに源融公はその華麗な生活ぶりから源氏物語の光源氏のモデルともいわれています。
源融公の御追悼
承和9年(西暦842年)7月15日、嵯峨太上天皇御崩御。
翌、承和10年(西暦843年)源融公は嵯峨天皇への御追悼のあまり勅願寺である太融寺に七堂伽藍を興される。
また併せて、嵯峨天皇の御神霊を御慰め申し上げる為、兎餓野行幸の際に仮殿とされた、当地に嵯峨天皇の御名「神野」をとって神野大神宮を創建される。これより、嵯峨天皇の御廟社として、太融寺共々皇室、殿上人の尊崇をあつめます。
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【あらまし@の内容】
・草創前期
・嵯峨天皇の仮殿
・源融公の御追悼
【関係人物】
・嵯峨天皇
・源融
【その他】
太融寺
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