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菅公左遷
梅塚と白江氏 |
菅原道眞公の左遷
そんな道眞公は、ご自身の学ばれ、研究された成果を、国の為に活かそうと様々な努力をされます。そういった道眞公の至誠の志を当時の天皇であらされた宇多天皇は大変愛され、道眞公に右大臣という高い位を授けられました。
しかし、そういった真っ正直な道眞公の姿勢を妬む心の曲がった人々もおり、宇多天皇の御子の醍醐天皇に御代が代わられた延喜元年正月25日、それら佞臣の讒言により、道眞公に無実の罪がきせられ、九州の太宰府へと左遷させる詔が下りました。
道眞公には一言の弁解をする事も許されず、自邸に咲く梅の花を見て
「東風吹かば 匂い興せよ 梅の花
主なしとて 春を忘るな」
という歌を残して京をあとにします。
浪速の梅
船に乗り、淀川を下り、道眞公は淀の川尻こと現在の梅田近くに立ち寄られ、源融公の創建された太融寺に参詣されました。その時、今を盛りに咲き誇っていた紅梅に目を留められ、古の仁徳天皇の御代、この難波津にあったという浪速の梅に思いを馳せ、しばしの間この紅梅をご覧になられました。
綱敷の御綱
この時、道眞公は無実とはいえ流罪の身であられましたので、旅路に関する一切の援助協力はなく、お座りになられる座すら用意はされませんでした。
つい一ヶ月ほど前までは民草の為に国家の要職を勤められたお方が、今は何故、立ち尽くして観梅せねばならないのかと、哀れんだ者が、船の艫綱(ともづな)を円座状にたぐり寄せて、即席の座とし、道眞公はこの上に坐られ、ようやく心落ち着かれ、しばし、紅梅に心を寄せられました。この故事が綱敷の名の由来となりました。
また、この時に地元の者が、お食事もまともに許されなかった道眞公に「ゆりわ」という曲げ物の器に団子を盛って差し出しました。
道眞公はその暖かい贈り物に、いたく感激され、これをご賞味あらされました。この「ゆりわ」は今も当神社の秋祭の折には団子を盛って往時と同じ形でお供えされております。
船出と白江氏
こうして一時の休息を得られた道眞公は、京都から付き従ってきた度会春彦の一族、孫の春茂ら6人を召され、「これより先の苦難の道、汝ら一族この地に留まるべし。我が霊魂ここに留まりて擁護の憐をたれん」と遺訓を残されて、自らが書き記したる御影一巻をこの一族に授け、「これよりは白江と名乗るべし」と姓を春茂らに賜れました。これが綱敷天神社の祠官家、白江氏の由縁であり、
「世につれて 難波入江も 濁るなり 道明らけき 寺ぞ恋しき」
と歌を詠じられ、旅立たれた道眞公去りし後の、紅梅の樹下に小祠を構え、梅塚天満宮として御影と御綱を祀り、平安の御代より現代に至るまで遺訓を守り伝えております。
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【あらましBの内容】
・菅原道眞公の左遷
・浪速の梅
・綱敷の御綱
・船出と白江氏
【関係人物】
・菅原道眞公
・度会春彦
【その他】
・御綱
・ゆりわ
・浪速の梅
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