七本松と北野天神の再建
寛正2年(1461)、当地に一夜にして七本の松が生出て、これは天神さまの御霊験と感じた人々が、太融寺の僧を通じて京へ告げるに、御社殿羅災の難に遭い、菅公の御神霊がご霊験を顕したとし、京都 北野天満宮より勅旨を賜り、菅公の神霊を改めて勧請し、北野(喜多野)天神の社殿が再建されました。
このような天神さまと松に関する伝説は、京都の北野天満宮にも千本松や影向松の伝承がある事などからも、松は天神信仰と深い関わりがあり、江戸時代以前に由緒をもつ天神社では松の木と梅の木を御神木としてお祀りされているところが多いようです。
度会神道による神事奉仕
ちなみに、当時は京都の吉田神社を中心とする吉田神道と呼ばれる流派が神道裁許状を発行し、これを持たぬ者は神職にあらずといわれていました。しかし、当神社においては伊勢の神宮祠官であった度会春彦に由縁を発する事から、同じく当時伊勢の神宮の外宮を中心に広まっていた度会神道の神職の奉仕する神社として、吉田神道とは一線を画していたと言い伝えられおります。
この事を示す史料の一つに、当時、度会氏によって行われていた「太々神楽」という神事を当神社でも「喜多埜太々神楽」という名称で絵図が伝わっており、伊勢外宮の神官であった度会氏に由縁を発する当神社の歴史を物語る史料の一つです。
しかし、このように古来どおりの神事を再建された社殿とともに伝えるも、織田信長の石山本願寺攻めや、慶長13年(1614)の大坂冬の陣では、当神社をはじめ大阪市街全域が戦場となり、またも戦災によって当神社は戦災を被ります。
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【あらましDの内容】
・北野天神の再建
・度会神道による神事
【関係人物】
・嵯峨天皇
・菅原道眞公
・度会春彦
【その他】
・梅塚天満宮(御旅社)
・喜多埜太々神楽図
・太融寺
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