当社と太融寺とを建立されるなど当社の由緒と深く関わりのある源融(ミナモトノトオル)とは何者かというと、当社の御祭神である嵯峨天皇の第17皇子にあたる方で、後に源姓を賜り臣籍降下され左大臣までなられました。
小倉百人一首にも河原左大臣の名で
「陸奥の しのぶもぢすり 誰ゆえに 乱れそめにし 我ならなくに」
という歌を残すなど、平安貴族の中でも有名な方です。
なぜ百人一首には「河原」と言う名がつけられているかというと、現在の京都河原町周辺に自宅として河原院という大豪邸を構えていたのがその名の由来です。河原町もこの大豪邸に由来する名前だそうです。
また、源融公はその後の平安文化人の間に多大な影響を与え、それが顕著に表れているのが紫式部の「源氏物語」であります。源氏物語の内容は過去にあった出来事や、昔の人々をモデルにしたところが多くあるとされ、主人公の光源氏も複数の人物を重ね合わせたものと言われています。その中でも、源融公がモデルであろうという場面が数多くあり、光源氏の臣籍降下や、六条院での生活(河原院も六条にありました)、左大臣の就任などは源融公とほとんど同じであるといわれています。
また、夕顔の段で光源氏と夕顔が鬼に襲われた屋敷は源氏物語が書かれた頃の河原院ではないかとも推察されています。(当時の河原院は住む人も無く荒れていたと言われています)
他にも宇治にあった邸宅を寺院に変えたのが今の平等院の前身であるとか、これらの事からもわかるように日本の平安文化の草創期の重鎮の1人であったといえます。
また道眞公とも関わりがあり、道眞公が太政大臣の政務拒否(阿衡(あこう)の紛議)を諌めた手紙を送った時、その事を判じたのが時の国老であられた源融公で、両者に関わりの深い当社にとっては妙な縁を感じずにはいられません。
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