天孫降臨(邇邇芸命が高天原より、豊葦原千秋長五百秋水穂國の高千穂に降臨された事)の際、神々の先頭に立ち邇邇芸命を下界である高千穂に導いた國神(クニツカミ、天上(高天原)の天神(アマツカミ)に対して地上の神様)で、その御神徳から道案内・交通安全の神様として、衢(ちまた=分岐)神と今も篤く信仰され続けています。
この猿田彦大神は今も様々な論争が絶えない神様で、まず、名前の由来は琉球語で先導を指す「サダル」が「サルタ」になったという説や、伊勢の狭長田(サナダ)という地名が名前になったという説や、あるいは佐那県(サナノアガタ)や佐多の岬に関係があるという説。動物の猿が田の神・山の神とされる民間信仰に由来するという説。「サ」は神稲の意、「ル」は「の」の意で、「神稲の田」という説。文字通り猿の意で、太陽の使いが守る神田の神という説。戯人(サルド)からきたという説などあり、名の意味は不詳とされています。
この神様の初見は古事記で、先にも述べた天孫降臨の際、天の八衢(ヤチマタ=分岐点、高天原と下界との境か)にて、上は高天原、下は葦原中つ国を光照らし、光り輝いている神様がおり、天照大御神が高木神に命じ天宇受売神をもって、「何故このような所で光っているのか?」と問わしめたところ、「私は国つ神で、名を猿田彦神。天つ神の御子が天降り坐すと聞き及んで、御前に仕え奉らんとして、参向して侍ったのです」と答えた。つまり天孫降臨に際し下界への先導の為に出迎えたにきた国つ神であるというわけです。
こうして猿田彦大神を先頭に五伴緒と呼ばれる五人の神様を従え、邇邇芸命は無事、豊葦原千秋長五百秋水穂國の高千穂に降臨されます。
さてこのように天孫降臨に際して活躍した猿田彦大神ですが、この神様に関しては他の神様と違い容貌に関する記述が多く、「鼻の長さは七咫(アタ)、背の長さは七尺(サオ)余り、まさに七尋(ヒロ)というぐらい大きく、また口尻(クチワキ)は明るく輝き、眼は八咫鏡のようで、照り輝く様子は赤酸醤(アカカガチ)に似ている。」つまり、まず鼻が長く、背が高く、全体的に大きく、口のわきが明るく輝き、眼は鏡の如く丸く、赤いほおずきのようだ。と言っているわけです。実に凄い容貌ではありますが、この記述をみてこれとよく似たものが思い浮かびませんか?。いわゆる、源義経に兵法を教えたと言う天狗がこの特徴にピッタリと当てはまります。俗神である天狗は実はこの神様がモチーフであるといわれ、よくお土産屋さんなどで、天狗とおかめが対になっているものが売られていたりしますが、それは猿田彦大神と天宇受売神の二神を指していると言われています。
また道祖神とよく呼ばれるものの多くは、道の分岐点に男女の姿が掘り込まれている石像が多いですがそれも猿田彦大神と天宇受売神の二人の神様がモチーフであろうと言われています。
さてその後、猿田彦大神はどうなったかというと、降臨の後、伊勢の狭長田の五十鈴川の川上まで、天宇受売神に請い願って送ってもらい阿邪訶(アザカ=伊勢国壱志郡にある地名)という海岸で漁をしていた時、比良夫貝(現在は確認されていないが、古代にはいたと考えられている巨大貝。)に手を挟まれ海中にて溺れてしまったと記紀には記されています。
また天宇受売神は天孫のもとに戻り、邇邇芸命に猿田彦大神について話しそのよしみにより猿女君の号を賜り、その後、海川の諸々の魚を天つ神の御子に従わせその功績により伊勢の国の速贄を賜ったと逸話には記されています。
またこの猿女君の一族は、天照大御神が天岩屋戸に篭られた際岩屋戸前で踊り歌い、天照大御神を岩屋戸から出現させた天宇受売神の子孫ということで、宮中における宮中神楽は猿女君一族が行ったといわれています。
では、この猿田彦大神をお祀りしているお社の総本社はというと、三重の椿大神社と同じく三重の都波岐・奈加等神社で、あちらでは海女族の信仰もあり、海洋神としても尊崇をあつめられておられます。
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【お祀りされている御社殿】
・白龍社
【猿田彦さまの御神徳】
・方除け
・交通安全
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