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和暦 御代 西暦 事項
神后摂政元年 摂政 201 02月。神功皇后と生まれたばかりの応神天皇を亡き者にしようと企んだ香坂王、忍熊王が、計略の成否を占う為、斗貿野(現在の兎我野町付近か)の地にて狩猟による誓約を行う。クヌギの木に登ってその様を見ていた香坂王は、突然茂みから出てきた赤いイノシシにクヌギの木ごと倒され、喰い殺される。つまり誓約の結果は大凶となり、忍熊王は京都宇治に撤退。その後、武内宿禰の計略にかかり、瀬田の渡りで入水したと伝えられる。この頃、中国は三国時代。
仁徳元年 仁徳 312 新羅人の和邇吉師(王仁博士とも)が仁徳帝の御代を言祝いで「難波津に咲くや此の花冬籠もり今は春べと咲くやこの花」の歌が詠む(『古今和歌集仮名序』又は仁徳天皇東宮の頃とも)。 この花とは梅であるとされ、菅原道真公が当地に参られた際、梅塚の紅梅を見て、この故事を思い出されている。
仁徳三十八年 350 秋07月。兎我野の鹿。仁徳天皇と皇后の八田皇女のお二方で高台に登って涼を求めていたところ、毎夜菟餓野(現在の兎我野町付近か)の鹿の鳴く声が聞こえ、その哀調を愛でていた。ところが月末になってパッタリと鹿の声が聞こえなくなり、不審に思っていると、翌日の夕食に出てきたのがその鹿で、その鹿を献上した佐伯部のしわざを恨んで、安芸の渟田に左遷したという。当時の人はこれを諺に、「鳴く牡鹿も相夢の随に」と伝え、「兎我野の鹿」として有名な話であった。(日本書紀) また摂津國風土記の「夢野の鹿」と記述が似ており兎我野の鹿は兵庫県夢野地区の説話ではないかという説もあるが、大伴家持の和歌にあるように、兎我野が恋の地であった事を考えると、この兎我野の鹿の説話は現在の兎我野町の可能性が濃厚である。ちなみに、この事跡を偲んで近世に「鹿の塚」というものが兎我野町にあった不動寺境内に存在していたが、戦後、豊中市に移転し、現在は「白鹿堂」としてその名残を留めている。
天平十六年 聖武 744 02月22日。安曇江に聖武天皇行幸。松林御照覧。安曇江はアドエとも読め、大阪市史では野崎町あたりを推定地としている。
天平勝宝二年 孝謙 751 04月12日。民部省符と民部省図によって新羅江庄として立券、成立と考えられる。当時は東大寺に関与か。新羅江は渡辺津の北側にあったと考えられ、兎我野つまり古代の梅田界隈がその地であったと推測される。
天平宝宇二年 淳仁 758 『日本霊異記』によると、この年に亡くなった寂仙という名僧が、28年後に神野という国王に生まれ変わると予言。
天応元年 781 土師姓が葬送にまつわるものであるとして、官人より敬遠されがちである事を鑑み、阿波守土師宇庭の子、土師古人が天皇に奏上の上、居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで、一族の子弟15名とともに菅原宿禰の氏姓を賜与される。この菅原古人の曾孫が道真公である。
延暦二年 桓武 783 東南院文書に収められた「太政官牒(東大寺文書十八)」に六月十七日付新羅江庄券の文字。白江庄と書かれた文書もあったといわれるが未確認。
延暦四年 785 08月28日。大伴家持没。万葉集の編者と考えられているが諸説ある。この万葉集巻11・2752に、「我妹子を 聞き都賀野辺の しない合歓木 我は忍び得ず 間なくし思えば(あの娘のことを聞き継ぐ、その兎餓野辺りのしなう合歓の木のように、私は忍びかねている 絶え間なく思っているので)という歌が残っている。昔、兎餓野あたりには、合歓の木があったのかもしれない。合歓の木は夜は葉っぱ同士がくっつくので、夫婦和合の植物として考えられていた。 またこの頃の難波には「恋忘れ貝」という貝があり、それを詠んだ歌が多くある。
延暦五年 786 09月07日(西暦では10月3日)。桓武天皇第ニ子 嵯峨天皇御降誕 御名「神野」。母は藤原乙牟漏。『文徳天皇実録』によれば、、「先朝の制、皇子の生まるるごとに、乳母の姓をもってこれが名となす、故に神野をもって天皇の諱となす」とあり、乳母の名から諱が取られるのが当時の慣例であったようである。 また後の檀林皇后である橘嘉智子も同年の誕生である。
延暦十年 791 12月。菅原古人、菅原朝臣の賜姓を受ける。古人は学問に優れ文章博士・大学頭を歴任し、侍読を務めるほどであったが、学問以外には無頓着であったため、この頃、菅原家は朝廷からの援助を受けていたという。
延暦十八年 799 02月。神野親王、14歳で御元服
大同元年 平城 806 05月19日。神野親王、21歳で皇太弟に。 平安京に遷都してから初めて行われた立太弟礼。
大同四年 嵯峨 809 04月01日。または04月13日(西暦では05月30日か)。第52代嵯峨天皇御即位。御年24歳。  平城天皇が病の為とされるが、早良親王や伊予親王の亡霊に悩まされていたといわれ、怨みを漱ぐ為の譲位か。  同年、異母妹の高津内親王が三品に叙され、皇妃となるが「まことにゆえあるなり」というよく分からない理由でほどなく廃されている。
809 10月。嵯峨天皇、大舎人山背豊継を遣わし、空海に『世説新語』の抜粋を新調した屏風に書かせる。
大同五年 810 03月。嵯峨天皇、政治の調整機関として蔵人所設置。藤原冬継、巨勢野足が蔵人頭。
810 06月。嵯峨天皇、観察使を廃止して参議を復活
810 09月06日。平城上皇、平安京を廃して平城京復都の詔勅を発す。嵯峨天皇事態の悪化を懸念し、平城上皇側を刺激せぬ為にもひとまずこれに従うとして坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上らを造宮使に任命する。人心大いに動揺。世に言う薬子の変の始まり。
810 09月10日。嵯峨天皇、上皇による遷都を拒否の意向を示す。 嵯峨天皇は使節を発して、伊勢、近江、美濃の国府と故関を固めさせる。その上で、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁し、仲成を左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。 嵯峨天皇は造宮使だった坂上田村麻呂を大納言に昇任させる。藤原冬嗣は式部大夫、紀田上は尾張守に任じられた。
810 09月11日。平城上皇、自ら東国に赴き挙兵しようとするも、嵯峨天皇の素早い決断により、坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じ、平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。
810 09月12日。平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。薬子の変の終焉
事件後、嵯峨天皇は関係者に寛大な処置をとることを詔した。高岳親王は皇太子を廃され、代わって天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。9月19日、弘仁と改元。
〃 弘仁元年 810 12月。嵯峨天皇、芹河野(現在の伏見区下鳥羽あたり)に行幸。鷹狩りを行われる。奈良時代は鹿狩りが主であったが、父帝、桓武天皇の頃より鷹狩りが盛んに行われるようになり、嵯峨天皇もこれを踏襲された。 この後、清和、陽成天皇の御代には狩猟は殆ど行われず、光孝天皇の御代になって復活した際に、在原行平が、「仁和のみかど(光孝天皇)、嵯峨の御時の例にて芹河に行幸したまひける日」の歌として「嵯峨の山 みゆき絶えにし芹河の 千代の古道 跡はありけり」(後撰集)と歌い、伝統が繋がれた事を稱えている。
810 薬子の変の後、平安祈願から伊勢斎宮を倣い、阿礼少女(あれおとめ、賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)として賀茂齋院の制を設ける。初代齋院は第八皇女の有智子内親王。   わずか4歳で卜定により齋院となる。大同14年には漢詩(経国集)の見事さから三品に昇叙、その後、16歳のとき病により退下する。
弘仁年中 この頃の落書きに「無悪善(さが(嵯峨)無くば善からん)」とあり、それを小野篁がすらりと読んだ為、篁が書いたと疑惑をかけられ、「子子子子子子子子子子子子(ねこのこは、こねこ、ししのこは、こじし)」題を読ませて試す。(『宇治拾遺物語』)                 
弘仁年中 この頃、唐の蘇明が和唐使として来日し、屠蘇白散を伝える。12月19日に配合し、水の上の桃の木の枝に吊るし、元日の午前四時頃、 薬子という童女が毒見をし、天皇に進める慣わしであった。この薬子は「くすりこ」と読み、枕草子に屠蘇を毒見役と記述されている。当時は三国時代の名医華陀が考案した事もあり霊薬とされ、四方拜の折に服したといわれている。意味は「鬼気屠滅人魂蘇醒」から。  また、この屠蘇が伝えられたのと同時期頃に四方拝の儀が行われるようになったと考えられ、嵯峨天皇の御代に制定されたとみられる。(文献上最古の記録は宇多天皇の寛平2年のものが一番古い)
弘仁二年 811 08月。『徳州皇帝真跡』『王陽詢真跡』『張諠真跡』他多くの書跡を嵯峨帝に献呈。
弘仁三年 812 02月12日。(太陽暦03月28日)、神泉苑において嵯峨天皇、観桜の宴を催す。文献上最古の桜の花見。(日本後期)  また『凌雲集』に収める嵯峨天皇の詩に「神泉苑花宴賦ニ落花ー篇」とあり、花見が行われた事は間違いない。  唐風文化の最盛期の象徴であった梅ではなく、桜を愛でたというところに、現在の日本人のもつ観念の源流を嵯峨天皇に感じる。
812 06月07日。空海、唐で学んだ製法で狸毛の筆4管を作製し、嵯峨天皇に献上。光定戒牒の運筆のかすれから察するに中国の狸毛と考えられる。
812 07月。空海が『急就章』『王昌齢集』等を嵯峨天皇に献上。  秋、乙訓寺で実った柑橘を空海自ら摘んで嵯峨天皇に献上する。
812 一説にはこの年、源融公ご誕生。(有力説は822年)
弘仁四年 813 この頃、嵯峨天皇は雅楽の新曲の製作を奨励して、正月の内宴に新作「最涼州」を演奏させ、又、南池院に行幸のときは、御自身が作られたといわれる「鳥向楽」が船楽で奏された。
弘仁五年 814 05月08日。嵯峨天皇、臣籍降下の詔。50人あまりもの子女が臣籍降下となり、源融公もこの後の降下の1人。のちに嵯峨源氏の元祖となる。 この降下のあらましや、六条院での生活が紫式部の源氏物語の光源氏のモデルといわれる由縁である。 また、同じく降下した源潔姫は史料上確実な臣下の妻(相手は藤原良房)となった初めての皇女である。
814 嵯峨天皇。藤原冬嗣の閑院第にて茶を喫す。『凌雲集』に「詩を吟じ香茗(茶)を搗(つ)くを厭わず、興に乗じて宜しく雅弾を聴べし」という記述があり、この事から陸羽式の団茶とわかる。
弘仁六年 815 04月22日。近江崇福寺僧、永忠は嵯峨天皇、韓崎行幸のとき、梵釈寺にて茶を煎じて奉上、この頃から唐菓子の輸入が増える。 正史(日本後紀)に見られる茶の記述としては最古の喫茶の記録。(伝承では聖武天皇の御代に行われた季御読経の際に茶がふるまわれたと『公事根源』にあるが、この書は室町時代の有職故実の書なので、信憑性に疑いは残る) 
815 07月12日。嵯峨天皇、畿内、近江、丹波、播磨等に茶の栽培を命じる。 
815 07月。橘嘉智子(30歳)(奈良麻呂の孫、後の檀林皇后)を皇后に立てる。
815 この年、嵯峨天皇の勅命によって編纂が始められた『新撰姓氏録』が成立する。万多親王等編。京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが本文は殆ど散佚してしまっている。
815 この年、嵯峨天皇の勅命により編纂された日本初の勅撰漢詩集である『凌雲集』が成立。全1巻。正式名称は凌雲新集。小野岑守、菅原清公らによって編纂された。作者は平城天皇、嵯峨天皇、大伴親王ら23人で、全90首。なお、後に1首が加えられ、91首となって現在に伝わってういる。ちなみに嵯峨天皇は歴代天皇の中でも詠まれた漢詩の数は歴代二位である。(一位は大正天皇)。
弘仁七年 816 06月19日。嵯峨天皇、空海に高野山を下賜。      
816 08月15日。空海、嵯峨天皇勅賜の屏風に揮毫し献上。
816 10月。嵯峨天皇の病気平癒を祈顧する。
816 嵯峨天皇、冷然院に行幸せらる。離宮として造営され、この行幸が初見である。
弘仁九年 818 菅原清公の建議により朝廷における儀式や風俗が唐風に改められた。有名なものに、男は二文字、ないし一文字の訓読み漢字。女は○○子というように子をつける事となり、これは現在までも慣習として続いている。
818 この年、嵯峨天皇の勅命により編纂された勅撰漢詩集である『文華秀麗集』が成立する。藤原冬嗣、菅原清公編。全3巻。先に編纂された凌雲集に続くもので、勅撰三集の一。作者は嵯峨天皇、淳和天皇をはじめ28人に及び、渤海使節や女流詩人の作品も収めるという。もともとは148首が収められていたが、内5首は伝わらない。
818 この年、嵯峨天皇の命により『新修鷹経』を編纂させる。世界でも2番目に古い鷹狩りの技術書といわれ、まとまったものとしては最も古いともいわれる。父帝、桓武天皇も鷹狩りがお好きであられたので、自ずと嵯峨天皇ご自身もお好きであられた事が分る。
弘仁十年 819 嵯峨天皇、『続日本紀』に次ぐ史書の編纂(『日本後紀』)を命じる。
819 01月10日。菅原古人薨逝。従五位下・遠江介。文章博士、大学頭、遣唐使、侍読を努めた。
弘仁十一年 820 02月(恐らく閏02月02日か)。黄櫨染御袍を天皇の正服と定め、禁色に指定。衣紋道に大きな影響を与える。  
820 06月05日。藤原冬嗣らが弘仁格式を撰上。延喜格式の大本にもなる。(延喜式の上表には嵯峨天皇の治世を称えている)
弘仁十二年 821 嵯峨天皇勅願により弘法大師、太融寺を創建
弘仁十三年 822 嵯峨天皇、当地兎我野に御行幸。当地(御本社)に仮の皇居を設けられここに宿らせ給う。
822 嵯峨天皇の第12皇子(当宮由緒では第17皇子)として源融公ご誕生(812年説もあり)。同年、源氏賜姓。臣籍降下。(『續日本後紀』承和五年十一月辛巳)
822 10月17日。過ぐる06月04日に入滅した最澄を悼み、嵯峨天皇、御自筆の『哭澄上人詩』を下賜。その時の使者は藤原常永(使図書助従六位下藤原朝臣常永)。
弘仁十四年 823 04月14日。最澄の高弟、光定が延暦寺一乗止観院で大乗菩醍戒を受けた際に、嵯峨天皇、義信の名で『光定戒牒』を下賜。現在も延暦寺に国宝として今も伝わっている。
823 04月16日。嵯峨天皇御位を淳和天皇に譲位。上皇に。御在位14年間。以後は冷然院(後の冷泉院)に住まわれる。 譲位後は、初の実質上の院政を敷かれ、「文章は経国の大業」として、天皇の在任中では出来なかった文化立国への事業を次々と展開され、まさに平安文化の始祖たる事業を次々に興される。
天長元年 淳和 824 07月07日。平城上皇(当時は法皇の称号は無かった)崩ず。平城院と追号(初めての追号)。この時、「薬子の変」の関係者の赦免を淳和天皇の御名で行っているが、実質は嵯峨天皇の指示であったと思われる。
天長二年 825 09月09日か(太陽暦10月27日)。左大臣の藤原冬嗣が嵯峨上皇に酒を温めて献上(『貞順故実聞書条々(伊勢貞順著)』)。上皇多いに喜ばれる。 その故実を元に「酒の燗は9月9日〜3月2日までたるべし」となった。熱燗の初見
825 11月28日。嵯峨天皇、五八(40歳)の賀を催す。(5×8=40) 恐らくこの頃に檀林皇后が「みかどに奉り給ひける」和歌として、「うつろはぬ心の深くありければここらちる花春にあへるごと(後撰1156)」の和歌を詠まれた頃か。嵯峨天皇の実直な優しさが伝わる。
天長十年 833 嵯峨上皇、淳和天皇の仁明天皇への譲位に合わせて、嵯峨院(現在の大覚寺、嵯峨離宮とも)に遷られる。この嵯峨の名は中国、唐の時代の長安の北にある嵯峨山から命名され、この院での生活から崩御の後、嵯峨天皇と追号された。
承和年中 仁明 嵯峨上皇、嵯峨院にて営んだ大沢池(底湖)の菊ガ島に咲いた菊を手折り瓶に指し、その姿が天地人の三才を備えていた事から、「爾今、花を賞する者はこれを範とすべし」と仰せられ、これが華道・嵯峨御流の始まりとされる。(大覚寺)
承和元年 834 この頃から内宴(内々の宴)が正月21日〜23日の間に行われる事が固定する。なお時期は不詳であるがこの頃から御斎会が行われるようになったと思われ、また曲水の宴も奈良時代に中絶したものもこの頃に再興されたと思われる。
承和二年 835 03月21日。 空海高野山で入定。10月。嵯峨上皇、挽歌を賜い哀悼する。またこの際、薬子の変で廃太子となった高岳親王(真如法親王)が入定に立ち会ったとされる。この親王は、薬子の変後、名誉回復され弘法大師十大弟子となり高野山親王院の阿闍梨となっていた。ちなみに親王はその後、862年入唐し二年後長安に入り、865年、会昌の廃仏により衰退していた中国に見切りをつけ天竺を目指し、その途次の羅越国(マレー半島の南端(ジョホール・バルの日本人墓地に供養塔)と推定されている)で虎害により死亡したと伝える。(『高丘親王航海記』) 当時の殿上人が体力の無い弱々しい人々では無かった事が分る。
承和三年 836 02月01日。遣唐使のために北野の地に天神地祇を祀る。(『続日本後紀』) いまの北野天満宮の地主神社。
承和九年 842 07月15日。嵯峨太上天皇 崩御。御宝算57歳。陵墓は嵯峨山上陵にて散葬。在京天皇薄葬の初例。(淳和天皇は散骨なので) その嵯峨天皇の遺言には、「人は死ねば気は天に、体は地に帰る。徳をもたない私の死に、どうして国費を使うことができようか。盛大な葬儀や祭祀は断じて行ってはならない。墓穴は浅く、棺を収められるだけの大きさにせよ。(古墳のような)盛り土はせず、草木の生えるままに放置しておけ。この命令に従わねば私の死体は辱められ、魂は深く傷つき怨鬼になるであろう」とあり、御生涯の華麗さとは正反対の慎ましげな御遺言である。この後、嵯峨天皇以外の天皇陵にも草木が生い茂っても放置するようになった可能性がある。
842 10月17日。嵯峨天皇のあとを追うように、菅原清公逝去。これまで文章博士から大学頭・式部大輔・左中弁・弾正大弼などを歴任、その後、従三位に叙せられ牛車による参内を勅許される。その間、延暦23年(804年)、遣唐使判官として渡唐も果たしている。これが渡唐天神の祖形になったとも。官位は遠江介・従三位・左京大夫。儒門之領袖とも呼ばれ、菅家廊下を主宰し、日本初の学閥ともいえる一大勢力を築いた。 家集に『菅家集』があるほか、清原夏野らと協同して『令義解』を編纂したことでも知られている。
承和十年 843 源融公、御父君であられる嵯峨天皇への御追悼の念から、太融寺に七堂伽藍を興す。この時、嵯峨天皇仮殿の当地に社殿を創建。(綱敷天神社御本社創建年) 社名は御名をとって「神野太神宮」と号す。 当宮創建
845 06月25日、菅原是善卿 三男、菅原道眞公(以後、菅公)御誕生。幼名は阿古。 この前年、是善卿はそれまでの長男、次男と早くに亡くしておられる事から、次は強く良き子をと、弟子の島田忠臣(老松公。後の菅公の岳父)に命じて、伊勢外宮の禰宜、度会春彦に祈願を依頼し、見事、道真公という立派な御子がお生まれになられた事から、その神通力を持って我が子を守って欲しいと、度会春彦に菅公の守役を依頼される。
嘉承二年 849 この年、菅公(五歳)、初めて和歌を詠まれる。「うつくしや 紅の色なる 梅の花 阿古が顔にも つけたくぞある
嘉祥三年 文徳 850 05月04日。嵯峨天皇皇后、橘嘉智子(檀林皇后)崩ず。宝算64歳。 世に類なき麗人であったといわれる。
850 09月08日。難波八十島祭の記録がはじめて史料にみられる。天皇の即位の翌年などに難波津に勅使が赴いたとされる祭典。370年間30代、22回行われたとされるが実際は更に昔から執り行なわれていたともいわれる。草創期は当宮周辺で執り行なわれていた神事であるといわれ、後年、祭場は南下し、御堀河天皇即位の元仁元年(1224)を最後に廃絶した。
斎衡二年 855 この年、菅公 初めて五言絶句の「月夜見梅花」の漢詩を詠まれる。
天安二年 清和 858 菅公、「臘月独興」の詩を詠む
貞観元年 859 菅公元服(15歳)。刑部副主四十の賀の願文を草す。 またこの時、道真公の御母より和歌が道真公に贈られ「菅原の大臣かうぶりし侍りける夜、母の詠みはべりける」として「久方の月の桂も折るばかり家の風をも吹かせてしがな(拾遺473)」と月の桂の歌を歌われる。「月の桂も折る」とは、漢語「折桂」に由り、官吏登用試験に及第して才名をあげることを指す。 この翌年、石清水八幡宮鎮座。
貞観四年 862 05月17日。菅公、18歳で文章生の試験に及第。文章生になる。
貞観六年 864 03月08日。『三代実録』によればこの日の条に、正三位行中納言源朝臣融加陸奥出羽按察使(遙任)とある。百人一首の「陸奥のしのぶもぢすり誰ゆえに乱れむと思う我ならなくに」が読まれた頃か。また、自邸の六条院に難波北の尼崎(現在の琴浦神社付近か)から毎月塩水30石を運ばせ、庭を陸奥国塩釜の浦を似せたのもこの頃か。
貞観七年 865 08月03日。菅公(21歳)、平子内親王の先妣周忌法会の願文を草す
貞観八年 866 閏03月10日。応天門が炎上。全焼した(応天門の変)際に、大納言・伴善男が「これは左大臣・源信(融の兄宮)の仕業」と申し出たため、これに連座する形で、源融公一時失脚。(『宇治拾遺物語』巻10) しかし後に身の潔白が証明され政界復帰。
866 11月25日。菅公(22歳)、円仁の書の序を草す。藤原氏宗のために「右大将を辞する表」を草す
貞観九年 867 01月07日。菅公(23歳)、文章生から二名しか選ばれない、文章得業生になる。
貞観九年 867 02月29日。菅公、正六位下拜任、下野権少掾任官。
貞観十二年 870 09月11日。菅公(26歳)、方略試に合格正六位上を拜任。この方略試は230年間で65人しか合格者はいなかった。この時の試験官は都良香。試験問題は「明氏族(氏族を明らかにす)」と「弁地震(地震を弁ず)」であり、特に地震については前年の三陸沖地震の影響が想像される。
貞観十三年 871 01月29日。菅公(27歳)、玄蕃助に任じられる。 3月2日、菅公、少内記に任じられる。
871 08月15日。中秋明月。菅公、十五夜の宴を開く。貞観六年頃から催されていたと思われる。お月見の先駆。
貞観十四年 872 01月。菅公(28歳)、渤海客使に任じられるが母の喪により解官。 5月、菅公、本官に戻り「渤海国王に答うる勅書」を草す。
872 08月25日。菅公、父是善、参議に任じられる。 9月、藤原良房没。
872 10月13日。菅公、藤原基経のために「官を謝する表」を草す。
872 源融公、左大臣に昇進。
貞観十五年 873 菅公、『治要策苑』の序を草す。
 貞観十六年 874 01月07日、菅公(30歳)、従五位下拜任。
874 01月15日、菅公、兵部小輔拝任。
874 02月29日、菅公、民部少輔拝任。
874 08月24日、『三代実録』に台風の為、「紫宸殿の桜」と「東宮の紅梅」が折れたと記載あり。紅梅の字の初見。また左近の桜の初見。
貞観十八年 陽成 876 菅公、長男、菅原高視 卿 誕生
876 この年、嵯峨天皇離宮であった嵯峨院を寺院に改め、大覚寺となる。
貞観十九年 877 01月15日。菅公(33歳)、式部少輔に任じられる。
貞観年中 清和天皇の御代に行われた弓の行事に源融公が供奉され、「貞観御時、弓のわざつかうまつりけるに」の和歌として、「けふ桜しづくに我が身いざ濡れむ香ごめにさそふ風の来ぬまに(後撰56)」の和歌を詠まれる。
貞観年中 貞観十八年頃か。この頃、源融公、宇治に別荘を作る。のちの平等院の雛形。源氏物語『宇治十帖』に影響を与えたともいわれる。
元慶元年 877 10月18日。菅公(33歳)、文章博士を兼ねる。
元慶三年 879 01月07日。菅公(35歳)、従五位上に昇進。
879 11月13日。菅公、基経らに代わり『日本文徳天皇実録』の序を草す。 冬 『後漢書』講義を始める。
元慶四年 880 08月30日。菅公(36歳)、父・菅原是善卿逝去。享年68歳。道真公、私塾・菅家廊下を継承。 是善卿の官位は従三位・参議。大内記・文章博士・式部大輔などとともに諸国の国司を歴任。貞観14年(872年)参議に任じられ、その後勘解由長官を兼任した。文徳・清和両天皇の侍読となり、内記として起草した詔勅や願文が多く残されている。都良香らと『日本文徳天皇実録』を撰し、また自ら『東宮切韻』『銀?輪律』『集韻律詩』『会分類集』などを撰した。
元慶五年 881 10月21日。菅公(37歳)、吉祥院にて法華八講を催す。
881 11月16日。菅公(37歳)、『太上天皇周忌願文』を草す。
元慶六年 882 01月07日。菅公(38歳)、『天皇元服賀表』を草す。
元慶七年 883 01月。菅公(39歳)、加賀権守を兼ねる。
元慶八年 光孝 884 05月。菅公(40歳)、太政大臣の職掌の有無について意見書を出す。
884 源融公(左大臣)、時康親王擁立をめぐって藤原基経と争う。「近き皇胤をたずねれば、融らも侍るは」(『大鏡』)
仁和二年 886 01月16日。菅公(42歳)、讃岐守を拝任。式部少輔兼文章博士を辞任し、任国へ下向。任地先の讃岐国府は現在の香川県坂出市府中町本村あたり。少し離れたところに滝宮天満宮が鎮座している。
仁和三年 887 07月30日。(西暦08月26日)。仁和地震。現在の南海地震が発生。M8.0〜8.3。東海・東南海も併発。圧死者多数。五畿七道を揺るがす。讃岐におられた道眞公も相当な衝撃を受けられた事は想像に難くない。土佐の田苑約12ku海中に沈む。摂津に津波来襲。
887 秋。菅公(43歳)、暇をもらい入京し年越。仁和地震によるものか。
887 11月17日。第59代 宇多天皇即位。菅公、従五位下に降格(一説に仁和地震の被災者への支援を願い出たところ、降格されたとも)。
仁和四年 宇多 888 04月。阿衡の紛議勃発。菅原道真公は諫書を関白藤原基経に送付。宇多天皇、その気骨に感心する。
寛平年間 この頃行われた、菊合わせに用いられた州浜に白菊を添える趣向をされた事から、菅公、それを打ち寄せる波に例えられ、「秋風の吹上に立てる白菊は 花かあらぬか浪の寄するか[古今集]」の歌を詠われる。  また時期は不明であるが、「海ならず ただよふ水の底までも 清き心は月ぞ照らさむ[大鏡・新古今集]」と詠われており、菅公の高潔な姿勢が窺われる。
寛平二年 890 正月元旦。宇多天皇四方拝。四方拜の最古の記録。(但し古説には嵯峨天皇の御代より定まったとされる)
890 春。菅公(46歳)、任地讃岐守より帰京
寛平三年 891 02月29日。菅公(47歳)、蔵人頭に任官。この頃より要職を歴任する。
891 03月09日。菅公、式部少輔に任じられる。
891 04月11日。菅公、左中弁を兼ねる。
寛平四年 892 01月07日。菅公(48歳)、従四位下に叙される。
892 05月01日。菅公、『日本三代実録』の選修にかかる。
892 12月05日。菅公、左京大夫を兼ねる。 『類聚国史』選進。「日本書紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の記事を事項別に分類し、年代順に収録したものである。 第171巻が災異部五、地震」であり、これは日本で最初にできた地震の事典でもあり、貴重な資料となっている。
寛平五年 893 02月16日。菅公(49歳)、参議を拝任。 式部太夫も兼任。
893 02月22日。菅公、左大弁に転ずる。3月15日勘解由長官を兼ねる。
893 04月01日。菅公、春宮亮を兼ねる。 同月、敦仁親王立太子。
893 09月。菅公、『新撰万葉集』を選修。
寛平六年 894 08月21日。菅公(50歳)、遣唐大使に任官。
894 09月30日。菅公、遣唐使廃止を建議。廃止が決定。 この後、国風文化が花開く。
894 12月15日。菅公、侍従を兼ねる。
寛平七年 895 01月11日。菅公(51歳)、近江守を兼ねる。
895 05月。菅公、紀長谷雄と渤海客使を饗応する。
895 08月25日(西暦9月21日)。源融公薨逝。正一位追贈。享年73歳。跡は息子の源昇公(河原院大納言)が嗣ぐ。子孫は嵯峨源氏の源(渡邊)綱ほか渡辺党。融公の邸宅であった河原院は、後に能の「融」の舞台にもなった。
895 10月26日。菅公、中納言を拝任し、従三位に叙せられる。
895 11月13日。菅公、春宮権太夫を兼ねる。
寛平八年 896 11月26日。菅公の娘 衍子(えんし)が、宇多上皇に入内して女御となる。また従四位下に昇叙された。宇多天皇との間には欣子という皇女が生まれたとされるが詳細不明。また、
寛平九年 醍醐 897 06月19日。菅公(52歳)、権大納言に任じられ、右大将を兼ねる。
897 07月03日、宇多天皇、醍醐天皇に譲位。上皇となる。 また譲位の際に記された『寛平御遺誡』は有名。
897 07月13日。菅公、正三位に叙される。
897 07月26日。菅公、中宮太夫を兼ねる。
897 08月28日。菅公、民部卿を兼ねる。
昌泰元年 898 10月20日。宇多法皇の吉野宮滝御幸に菅原道眞公随行。この日は暮れてから赤目御厨に宿る。
898 10月21日。交野にて遊猟。従駕の者、数十人となる。この時、紀長谷雄も同行していたが、足を負傷し帰京した。 一行は旅宿に泊まる。
898 10月22日。一行 宮滝に向かって出発
898 10月23日。一行。法華寺に参拝。素性法師が合流。この日は大和高市郡にある菅公の山荘に宿泊。この際に、百人一首にも上がる「この度は幣も取りあえず手向山紅葉の錦神のまにまに[古今集]」を詠う。(『袋草紙』置白紙作法)
898 10月24日。現光寺(世尊寺跡)参拝、別当聖珠大法師、山果を捧げ、香茶を煎じ、以て勧め、侍臣を饗す。この日は吉野郡院に宿泊。
898 10月25日。一行宮滝(現在の奈良県吉野郡吉野町宮滝)に到着。宮滝の絶景に和歌を詠む。菅公御製「水ひきの白糸はへておる機は旅の衣に裁ちやかさねむ[大鏡・後撰集]」を詠う。竜門寺参拝。
898 10月26日。一行宮滝に留まる。京の都より平元方が醍醐天皇の使として到着。閑談する。
898 10月27日。一行宮滝を出発。平元方も随従。
898 10月28日。平元方、京都へ帰還。上皇摂津住吉の浜を指して、竜田山を経て、河内国に入る。竜田は古くから名山勝境の地であり、和歌を献ずる事になり、菅原朝臣絶句に曰く。「満山紅葉破心機 况遇浮雲足下飛 寒樹不知何処去 雨中衣錦故郷帰(満山の紅葉 心機を破る 况んや 浮雲足下より飛ぶに遇ふをや 寒樹は 何処に去きしかを知らず 雨中 錦を衣て故郷に帰らむ)」と詠う。 この歌から「故郷に錦を飾る」という故実が生まれた。
898 10月29日、菅公、宮滝御幸に随行していた素性法師が本寺に帰るというので、送る和歌会があり。
898 10月30日、住吉大社着。此処では浜の光景を賞で、神社において和歌の会を催し、「紅にぬれつつ今日や匂ふらむ 木の葉移りて落つる時雨に[新拾遺集]」を詠う。
898 11月01日。一行 朱雀院に帰還。10日間にもわたる大旅行であった。
898 11月。斎世親王元服。この頃、菅原寧子(菅公の三女・刈屋姫のモデルか)が入内したか。 菅公、兵部卿上総太守などを歴任。
昌泰二年 899 02月14日。菅公、右大臣右大将に昇進。
899 03月。菅公、正妻 島田宣来子従五位授かる.
899 10月。宇多上皇、落飾。初代法皇となられる。仁和寺を構えられ、御室と呼ばれるようになる。また道眞公の娘、衍子も宇多法皇と共に出家している。
899 道眞公に孫、菅原文時公誕生。後に従三位に任じられた事から菅三品とも称される。
昌泰三年 900 08月16日。菅公、『菅家文草』・『菅相公集』・『菅家集』を献上。
900 09月09日。菅公、重陽の節句で、「一朝逢九日 合眼独愁臥 菊酒為誰調 長斎終不破」と詠う。
900 10月11日。三善清行、菅原道真公に突然、引退勧告状を送付。
昌泰四年 901 01月07日。菅公、従ニ位に叙される。
〃        (延喜元年) 901 01月25日。菅公に対し、突如として大宰権帥に任じる左遷の詔が下る。 世に言う昌泰の変。長男高視卿は土佐介(潮江天満宮)、長孫 久松麿(雅規)は尾張国知多郡阿久居、景行は駿河権介、兼茂は飛騨権掾(遠江)へと配流となる。淳茂は山崎までの同行(一説に播磨配流) (一説には三男 道武が江戸に配流となり、その地で創建したのが谷保天満宮)
901 01月25日夜。宇多法皇、菅公の「流れゆくわれは水屑となりはてぬ 君しがらみとなりてとどめよ[大鏡]」の和歌を知り、しがらみとなって左遷の詔の撤回を求める為、正月の凍る道の中、夜を徹して裸足で急いで御所に向かわれ、ムクノキが傍に生える左衛門の陣にお坐りになられ開門を迫られるも、藤原菅根が門を守って堅く拒んだため、御所に参内出来ず、菅公左遷が決まってしまう。
901 02月01日。菅公、京都を発つ。 自宅の宣風坊の庭上に咲く紅梅に対して、「東風ふかば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな[拾遺集]([大鏡]では”春な忘れなそ”と改変あり)」、「さくら花 ぬしをわすれぬものならば ふきこむ風に ことづてはせよ」と詠い、また、奥方か法皇宛に「君がすむ宿の梢のゆくゆくも かくるるまでにかへり見しはや[大鏡・拾遺集]」とも詠われ出立される。
901 02月02日。菅公の娘(刈屋姫)婿であらされた斎世親王出家。真寂法親王と名乗られ仁和寺に入られる。
901 02月02日(現在の暦で2月28日前後。白江氏系図書より)。菅公、御船旅の途中当地、喜多埜に立ち寄られ、太融寺を参詣。 その時に今を盛りと咲いていた紅梅を仁徳帝のためしもあればと御賞玩され、即席の座席として船の艫綱を敷いて坐られる。 この由来により綱敷と称する。この紅梅は梅塚と後世に称せられる。 
この時、地元の民(伝承では松村家、吉田家を初めとする梅鉢七家)より「ゆりわ」という器に盛られた団子をご賞味あらされ、近従、白太夫こと度会春彦の孫(春茂か)ら一族にこの地に留まるべしと告げられ、遺訓の重さによりて留まりて、菅公より白江の姓を新たに賜る。これはおそらくこのあたりの旧名「新羅江」が何か関係した苗字かもしれない。
ひとところ休息を得られた後、「なけばこそ別れを急ぐ鶏の音の 聞こえぬ里のあかつきもがな」と詠い給いて、菅公は太宰府に向けて出立なさる。この後、白太夫の孫、春茂ら六人が当地に残り、菅公御賞玩の紅梅の樹下に小祠を祀り梅塚天満宮と号す。(御旅社創建) ちなみにこの時、道眞公が歩かれたあたりに繁っていた芦が、道眞公に頭を垂れるように垂れたところから「片葉の芦」と呼ばれた。その歩かれたところは現在の阪急東通商店街といわれている。
なお、まったくの偶然であるが、当宮御本社から、菅公が幽閉されていた太宰府榎社までの方向角度はちょうど250度。新暦2月2日の御本社から見た太陽の日没角度も北を0度とした時、ちょうど250度であり、偶然とはいえ御奇瑞に菅公との御神縁を感じられる。
901 02月。菅公左遷の途次に、明石の駅長が、昨日までは右大臣右近近衛大将の顕職にあり、国家の柱石として上下の倚信するところがあった公が、今日は太宰権帥に貶オトされ、警固の武士に取り囲まれ、聞くも忌まわしい流人の身となって西下する、あまりに変わり果てたお姿を見て、酷く驚き同情した事に対し、「駅長驚くこと莫かれ 時の変わり改まるを 一栄一落 是れ春秋」と詠い給う。菅公の無常観を伝える。(後世の創作ともいわれている)
901 05月〜06月か。太宰府の配流先(現在の榎社)での困窮なる生活を送る中、「離家三四月 落涙百千行 万事皆如夢 時々仰彼蒼」と詠う。 また、「不出門」と題して七言律詩を詠み給う。今も残る観音寺の鐘がその寂寥の音を伝える。
延喜元年 901 07月15日。延喜に改元される。道眞公、太宰府で「読開元詔書」の漢詩を詠む。
902 春。『菅家後集』500の「雨夜」に胸と腸が苦しいので茶を服用したという記述がある。「起飲茶一盞」。しかし効果が無いので杯半分の酒を呑むと続いている。道真公の煩悶がよくわかる一節。
902 09月09日(10月17日)。菅公、昨年の重陽の節句における詩歌の宴を思い起こされ、「九月十日」と題され、「去年今夜侍清涼 秋思詩篇独断腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拝余香」と詠い給う。公の精神の発露顕現たる名歌といえる。
902 秋。菅公、子息、菅原隈麿。太宰府にて死去。 読書好きな御子であらされたが、亡くなられた日からその声も聞こえなくなったと菅公は「秋夜」と題した詩からもその落胆振りが窺い知れる。余りにも悲哀極まる。
延喜三年 903 01月。菅公、「謫居春雪(辞世)」を詠む。死期を悟られたのか、これまでの詩作をまとめられた『菅家後集』を紀長谷雄に送る。
903 02月25日(太陽暦03月26日)。菅公薨去。御年59歳。(薨逝後25年ごとに執り行なわれる萬燈祭は薨去の年を一年目と計算する)、薨逝直後に比叡山の座主、法性房尊意のもとに御霊となって現れ、問答する。柘榴天神の伝説。(『北野天神縁起絵巻』)
延喜四年 904 02月25日(白江家系図書)、01月09日(北野天満宮社伝)、白太夫こと白江家初代、度會春彦公逝去。享年83歳。 伝承によれば、若い頃から白髪の為、白太夫とも呼ばれた。 菅公の逝去の後、遺品を土佐の高視卿のもとに届けに行かれ、そのままその地で亡くなったとされる。
延喜五年 905 08月。味酒安行、安楽寺に菅公の祠廟を建てる。太宰府天満宮の創建
延喜六年 906 菅公左遷に加担した、中納言藤原定國が40歳の若さで死亡。(『北野天神縁起絵巻』)
延喜八年 908 10月頃。菅公左遷に加担した、藤原菅根が雷火に打たれて死亡。(『北野天神縁起絵巻』) この年、疫病が蔓延する。
延喜九年 909 03月。藤原時平が両耳から蛇に化身した菅公に怯えながら狂死。三善清行の子、浄蔵大徳が祈祷も効かず。また『扶桑略記』にはこの頃から、日食・月食、・彗星・落雷・地震・旱魃・洪水・火事・伝染病の流行といった記事が毎年のように目立つようになり、道眞公怨霊説がまことしやかに噂される下地になった。
延喜十三年 913 菅公左遷に加担し、公卿の集団職務放棄を扇動し、菅公を困らせた源光が狩猟の最中底なし沼にはまり行方不明。
913 道眞公長男。菅原高視卿、 逝去。従五位上。道眞公に連座して延喜元年に土佐介に左遷され、潮江天満宮の地で軟禁状態になるも、五年後許されて大学頭となって帰京する。子に菅原文時がいる。また、孫に菅原孝標(資忠の子)、その子が菅原孝標女で『更級日記』の作者である。
923 04月。右大弁公忠頓死。しかし3日後蘇生し、冥界で菅公より「延喜帝のされた事は心外」と告げられたと奏上。
延長元年 923 04月20日。次期皇太子であった保明親王が急死。驚いた朝廷は菅公を従二位大宰権帥から右大臣に復位。正ニ位追贈。左遷詔を焼き、年号も延喜から延長と改めた。国家が菅公の無実と神格を正式に認めた瞬間といえる。北野天満宮ではこの日を冤罪の晴れた日として「明祭」を今も執り行っている。
延長三年 925 06月18日(太陽暦で07月11日)、次期皇太子であった保明親王の子、慶頼王が五歳で死去。(母親は時平の娘)
延長四年 926 06月25日。一説によればこの日、宇多法皇は仙洞御所として用いていた六条河原院で源融公の亡霊を見たとされる。後に能「」の下地となった逸話。
延長八年 930 06月26日午三刻(午後1時頃)。清涼殿坤の第一柱に落雷。藤原清貫等の殿上人が夭亡。醍醐天皇発病。道真公の祟りと恐れられた。
朱雀 930 09月22日。醍醐天皇譲位。09月29日。法性房尊意を戒師として法皇に。同日崩御。
祥平元年 931 07月19日。宇多法皇崩ず
天慶二年 939 平将門の乱 勃発。いわゆる承平天慶の乱。この際将門は、「菅原道真公の霊魂が味方をしている」という旨の事を言ったと『将門記』には記されており、初期の天神信仰の一端が分る。
天慶四年 941 08月01日、修験道の聖地である吉野金峰山で修行していた日蔵(道賢)という僧侶が、笙の窟で修行中、仮死状態となり、あの世へ行き、地主神蔵王権現の導きで三界六道をめぐり、太政威徳天に転生した道真に面会し、「相次ぐ災害は我が眷属が引き起こしたものであり、己を祭れば逃れられる」と教えられ、さらに地獄に堕ちた醍醐天皇とも会い、追善供養を行うよう朱雀天皇への伝言を託され13日後に蘇生した。 ちなみにこの日蔵上人こと道賢は記録の少なさから、その存在すら疑問視されていたが、中国歴史博物館で「倭国椿谷椿山寺奉納三部経一巻為父母菩提敬白延長三乙  酉年八月十三日道賢法師」と刻まれた経筒が見つかり、論争をよんでいる。
天慶五年 942 07月12日。西京七条二坊に住む多治比文子(五歳)に菅公御霊からご託宣あり。右近馬場に社祠を営むように宣る。 しかし、馬場は国の土地なので貧乏だった文子らにはどうしようもないので、自邸に祀る。
天慶九年 946 近江國比良宮(現在の白髭神社か)の禰宜 神良種の長子太郎丸(七歳)に文子と同じお告げがあり、そのお告げの通り、千本松が右近馬場に生え、これに驚いた良種は右近馬場の僧最鎮らに事情を告げ、その寺の寺主の満増らと話し合い、文子親子とも協力し社を建立する。
天暦元年 村上 947 06月09日。京都、菅公を祀る社として北野社が創建され菅原道真公 御鎮座。現在も北野天満宮では06月09日には宮渡祭と称し、御鎮座を言祝ぐ神事が行われている。
天徳四年 960 09月23日、内裏炎上。南庭の桜も焼ける。重明親王の家にあった桜を移植しこれに変えた。 また移った新殿の天井板に一夜にして虫食いによる文字が浮かび上がり、「作るとも又も焼けなん菅原やむねの板間のあはん限りは」とあり、ここに北野社を天子による造営となし、以後“宮”の字をあて、北野天満宮となした。以後、祟りは止んだ。(『和漢三才図絵』)
康保四年 冷泉 967 延喜式施行。この中に坐摩神社に関する記述があり、それによると、宮中の神殿にて祭祀する(現在も宮中三殿の一つ神殿に祀られる)坐摩御巫には都下国造の7歳の童女をあてるとされる。都下とは兎我野の事と考えられ、古代の兎我野は何らかの重要祭祀の地であったと考えられる。この童女は西から来る穢れを祓う儀式をするといわれる。
永延元年 一条 987 08月05日。北野天満宮はじめて勅祭を斎行せらる。(現在は08月04日。これは皇室の服忌日に5日があたった為、後に変更した)
正暦四年 993 菅公に正一位太政大臣を追贈。この時、菅公の御神霊を改めて当地の梅塚天満宮に勧請し、また当時太融寺の僧によって管理されていた嵯峨天皇御廟社の神野太神宮とを合祀し、北野(喜多野)天神と号す。
康平二年 後冷泉 1059 菅公5世子孫の菅原孝標女の『更級日記』の記録がこの年で終わる。以後詳細不明。
天福元年 四条 1233 この年、北野天満宮本殿炎上。その際に、一條天皇の御代に百人一首で有名な和泉式部の手植えた「いとをしの梅」にも飛び火して焼ける。人々が惜しみ悲しんだところ、その根元から二本のしもとが生え、立ち栄たので人々驚き、菅神の徳を称えたと古記録にある。
建武元年 後醍醐 1334 08月。足利尊氏、天下泰平を祈願して太融寺に寄進。 その寄進状に源融公の太融寺草創の記事が記される。
暦応年間 後村上 この頃、戦乱により、当社兵火に遭い、社頭神宝を焼失す。恐らく暦応三年(1340)の事と考えられる。
正平十六年(南)   延文六年(北) 1361 08月03日。M8.0〜8.5の正平南海地震が発生。摂津四天王寺の金堂転倒し、圧死5。その他、諸寺諸堂に被害が多かった。津波で摂津・阿波・土佐に被害。当神社も何らかの被災を被ったと思われる。
文安元年 1444 04月13日。文安の麹騒動。北野天満宮全焼。
寛正二年 1461 02月26日。中島崇禅寺領目録「そねざき平田分」の中に、「埋田之内角田三百歩」とあり、梅田の名の由来か。また、「福島村 平田分」の中に「北野村」の名が見られる。 角田内という文字は『北野村総領境絵図』にもあり、間違いないと思われる。
1461 摂陽群談』によれば(蘆分船では寛正四年)この年、当地に一夜にして七本の松生い出、太融寺の僧これを京へ告げるに、菅公の御霊験とし、洛陽の北野天満宮より勅旨を賜り社殿を再建する。この松は昭和20年まで稲荷社横に遺木として残っていたが戦災で焼けてしまった。
文明十年 1478 04月17日。『親長卿記別記』に、応仁の乱により賀茂祭の斎行が難しいのは甚だ遺憾として、 鴨河合祝館(現在の下鴨神社摂社河合神社)宛に綸旨を出し、河合神社の知行である北野庄に課役を懸け神役を勤仕せしめるようにすべきであると述べている。この時期同庄が賀茂祭の斎行の為に重要な荘園であった事が分かる。
明応七年 1498 この頃の本願寺蓮如の消息(手紙)に大坂の地名あり。これが大坂の初見とされる。
享禄四年 後奈良  1531 中嶋の戦い勃発。管領の座をめぐって、細川高国(管領)と細川晴元(河内源氏長者)・三好元長の戦いで、天王寺、野田城など現在の大阪市北区、福島区が激戦区となる。
元亀元年 正親町 1570 09月12日。織田信長による石山合戦(本願寺攻め)が始まる。この後11年間、大阪市街は戦場となった。
天正十年 1582 この年、藻虫斎梅庵こと大村由己が摂津天満宮(大阪天満宮)の別当になる。この頃から秀吉が大坂の統治に力を入れ始めていたと考えられる。これを受け、当宮神職である白江寿正、正善が梅庵と関わりをもつようになったか。
天正十一年 1583 09月。豊臣秀吉、大坂城の築城工事を着工。1日5、6万人の人員を動員し、1年半後には本丸が竣工。以後15年間に渡って工事は続けられ大規模な惣構えの城郭となる。この時に大阪市内の整備も進む。
天正十五年 後陽成 1587 01月01日。『言経卿記』に秀吉の御伽衆であった大村由己(梅庵)の所へ年頭挨拶に行く人の中に「白江寿正」、「白江正善」の名が見え、当宮の神職と思われる。ちなみにその時同行したメンバーは、山科言経・冷泉為満・四条隆昌・山科言緒(「阿茶丸」)。 また一説に、この頃の秀吉の祐筆に「白江善五郎」という者がいたとされる。
1587 この頃、現在の兎我野町の東端に豊臣秀吉が「菜種御殿」なる別庵を設け、盛大な菜の花見を催し、「菜種おどり」に興じたと伝えられる。ちなみに、この御殿で歌われた「菜種御殿菜種歌(蝶や蝶や蝶々や止まれや、菜の葉にとまれ、今日は彼岸の春日和)」を元に童謡の「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ」が作られたといわれる。
1587 豊臣秀吉により、北野天満宮にて北野大茶湯が催される。
慶長三年 1598 天満堀川を開削。その土砂でごもく山が形成される。いまの扇町公園の丘陵がその跡か。 堀川戎の榎木大明神の話もこの頃か。この年、豊臣秀吉薨逝。
慶長八年 1603 春。出雲の阿国が北野天満宮に小屋掛けして興行を行った。 これが歌舞伎の最初とされる。
慶長十年 1605 摂津國絵図』に北野村の記載。石高748石余。
1606 秀吉の死後、高台院となって出家した北政所ねねの発願により、高台寺を建立。その際に、高台院の兄、木下家定が綱敷天満宮(当宮の分霊か)の社殿を高台寺境内に造営して寄進した。高台院ねねは綱敷天神を信仰していたといわれる。
慶長十二年 1607 豊臣秀頼により北野天満宮社殿が造営される。今も現存する社殿。またこの時、数ある末社が長屋作りとなる。
慶長十三年 1608 片桐且元検地。当社除地される。
慶長十九年 1614 11月。大阪冬の陣勃発。野田福島の戦いの飛び火で当神社周辺が戦場となる。
慶長二十年 1615 05月。大阪夏の陣勃発。「大坂の町城残らず焼け了」と言われるように市中全焼。同月7日深夜。大坂城落城。炎上する大坂の炎は京都からも見えたという。
元和元年 後水尾 1615 大阪藩藩主(後の大阪城代)、松平忠明、戦後の大坂市街整備の一環で、寺院墓地を整理。西寺町、梅田墓地、南濱墓地もこの時生まれた。また、摂津一国高御改帳に北野村の石高として858石余の記載。
元和六年 1621 北野村古記録』作成され始める。
明暦三 後西 1657 新板大坂之圖』が刊行され、当神社地も記載される。
寛文年間 霊元 1661 寺請制度の宗門改帳の作成が本格化する。この頃、梅塚天満宮を梶井御門跡の天台宗慈雲山常安寺として創建か。ちなみに梶井御門跡とは天台宗 三千院の事であり、天台宗と天神信仰はこの頃密接な関係にあった。また、現在の御旅社に残る石碑に「第廿三番 常安寺」と掘られたものがあり、この石碑の正面には「う免都可(うめづか)天満宮」とあり、梅塚と常安寺は一体のものであった事が分かる。
延宝三年 1675 蘆分船』刊行。当宮の縁起を記載。 前年の淀川大洪水により記録類の散佚を防ぐ目的もあったか。
延宝五年 1677 青山大膳亮検地。当社地除地される。北野村の石高、852石余。
貞享三年 1685 本社手水舎の手水鉢奉納。現存。
貞享四年 1686 新版大阪大絵図』製作される。当宮も描かれる。
元禄二年 1689 旧境内、社務所前に石燈籠奉納。戦災で破壊。
元禄四年 1691 この頃、大坂大絵図に「梅田橋」(現在の堂島3丁目あたりに架かっていた)の名が見える。記録上、「梅田」の文字の初見
元録十五年 1702 02月25日。当社『菅家聖廟伝』を刊行。桑原梅性編。菅公の伝記より天満天神の祭祀に至る詳細な史伝。
享保年間 旧御旅所にあった神牛像奉納。しかし、平成年間改修の際、磨きすぎて古風を失う。御本社に現存。梅田の牛の藪入りを伝える唯一の像。
享保元年 1716 09月24日。御本社本殿再建。「奉再建北野村氏神天満宮拝殿棟札」にある日付。棟札のみ現存。(この頃の秋祭は9月24日だった
享保二年 1717 旧本殿の内陣獅子狛犬奉納
享保十四年 1729 04月。林九兵衛『喜多埜村天神宮綱敷御影略縁起』を著す。
享保十六年 1731 検地。当社地除地される。
元文三年 桜町 1738 12月20日。宮座騒動。当宮の宮座のあり方について争議があり、代官所での裁判にまでなる。
元文四年 1739 02月25日。『宮座作法規矩』が木版に明文化される。先年の騒動を受けての明文化とみられる。また、この数年後に幾つか不備の点が見られるため宮座作法規矩を改定されたといわれるが戦災で焼失。
元文六年 1741 02月。当宮神輿庫改造の御願書を提出する。
延享三年 1746 08月21日。大阪竹本座にて、竹田出雲、並木千柳、三好松洛らの合作による人形浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』が初演される。白太夫が大きく取り扱われており、当宮の由緒に一つのヒントを得たものとも考えられる。
延享四年 1747 難波丸』に当社記事が記載される。
寛延三年 1750 北野村領境総絵図』製作される。現存。
宝暦年間 喜多埜天神太々神楽図』が作成される。当社初代の度會治彦が伊勢の外宮禰宜であった事を示す資料としても重要なものである。またおそらくこの時期に、白江氏系図書が白江治兵衛(白江三郎三右衛門次男)によって作成されたものと思われる。
1756 浪華往古図』作成される。当神社も喜多埜の文字の横に鳥居と共に描かれている。
宝暦八年 1758 北野村屋鋪図写本』製作される。当社の神子屋敷、別当屋敷等記載される。
宝暦十二年 1762 12月。北床之尾中より獅子狛犬一対奉納。現在本殿裏にある狛犬。床之尾は兎我野の事か。
明和八年 1771 天照皇太神宮勧請所十七社』に当社が記載される。この頃には当宮にも神明社(豊受宮)があった事が分かる。
安永三年 後花園 1774 03月23日。与謝蕪村(毛馬村出身)が「菜の花や 月は東に 日は西に」を京都での旅の途中に詠む。その原風景は自身の里である現在の茶屋町付近に広がっていたとされる菜の花畑を回想したものといわれる。
安永八年 1779 正月 『北野村図写』製作される。
天明二年 光格 1782 御宮勘定帳』に「七月御祓」の記載がある。例祭前の神輿洗行事と清祓行事を指す。(郷社現行特殊慣行行事)
天明八年 1788 11月。観音堂再建に関する文が記される。十一面観音は菅公の化身とする信仰がある。
寛正四年 1792 06月19日。太宰府天満宮の古記録である『延寿王院鑑寮日記』に、「十九日己ノ刻快晴 大嶋左衛門(記録)
一、長崎井手要右衛門参入 於御居間、両殿様御対顔、同人献上物左通り
一、唐本一部ニ套
一、白砂糖
一、器
一、紅毛コヒイ包 是ハ豆ニ爾製候もの也 紅毛人煎茶之由 右旦那様エ」
とあり、コーヒーが奉献されたようである。文献上、日本でのコーヒーの初見
寛政十二年 1800 狂歌絵本 浪花のむめ(梅)』、白縁斎梅好が撰集開板。当社の梅塚の記載あり。
文化元年 1804 北野村に宿場の開設が認められ、茶屋株30、風呂株2、煮売屋株5、旅籠屋株3が認められた。(大阪市史)
文政三年 仁孝 1820 8月9日(1820年9月15日)。文人画家の岡田米山人死去。当時の近世大坂を代表する文化人。現在の兎我野町あたり(寒山寺裏長池)で米屋を営んでおり、画号の米山人もこの米屋が由来と思われる。
文政四年 1821 06月。梅塚天満宮(御旅所)に芋屋市良兵衛、勘右衛門、塩屋 卯兵衛、○○屋由兵衛より 石燈籠一対奉納。現御旅社に現存。
天保五年 1834 太融寺と門が二重になっているほど社域の広大であった夕日神明宮が火災により焼亡
天保八年 1837 02月19日。大塩平八郎の乱勃発。当社周辺も俄かに騒然とするも翌日には平静を取り戻すも、市内は不穏な状態となる。
天保十二年 1841 難波巡覧記』に北部の社寺として当社記載される。 また、この頃、後にキタの大親分となる小林佐兵衛こと万吉が北野村にいたようである。(司馬遼太郎:俄)
弘化三年 孝明 1846 03月。肥前藩(佐賀)廣東右衛門が、天満に住む細工人、田中屋新兵衛に御綱の御筥を作らせ奉納する。
1846 この年の3月中旬より4月末までの寺子屋よりの供米献納数は、 『御供米袋受納帳』によると180ヶ所にも及ぶと記されている。
嘉永二年 1849 浪速名勝帖』に「夕日の神明、堀河えびす、河原の大臣の太融寺、北埜(キタの)の社は綱敷なり」と記載され、習字の手本とされた。
安政元年 1854 12月24日。 安政南海地震。M 8.4、死者1,000〜3,000人。大阪市内でも被害甚大。
安政二年 1855 05月05日。萬載橋が架橋される。 萬の俵を載せてもびくともしないというのが名の由来といわれるが、萬も載せられるほど大きくないし、それほどしっかりした構造ではないので信憑性は薄い。むしろ、漫才の原型である「萬歳」との関係の方が濃厚であるように思われる。 架橋は恐らく前年の津波によって何らかの被害が北野村にまであった為ではないかと想像される。
慶應元年 1865 11月07日。江戸幕府は諸藩に長州征伐を下命。大阪湾は軍艦で溢れた。この頃、大坂市中は駐屯兵が至る所に留まり、大変迷惑を被ったといわれる。恨み節のような歌も流行った事から、当時の幕政に対し憤りの強かった事が分かる。この翌年、北野村でも打ち壊しが起こる。
慶應二年 1866 5月、北野村で打ち毀しあり。日雇、賃雇者が増えた為とも。(鐘奇斎近世風聞雑記) 当時、当神社の神人であり庄屋であった吉田家の伝承(吉田國松氏)によれば、しょっちゅう苦情が殺到し、吉田家では先ずまぁまぁと鎮撫してから大飯櫃に飯を炊き込み、食わせて殺気を削いでから話し合いをしたという記録があり、その飯櫃の大きさが二尺であったというから、どれ程の苦情があったか想像できる。
慶應三年〃 1867 12月09日。王政復古の大号令により、新政府の樹立。江戸幕府は幕を閉じる。大坂は天領となる。
慶應四年・明治元年 1868 01月09日。新政府軍、大坂城へ無血入城。 この頃、大坂を大阪と改められる。通説では土に反るというので語義が良くないからとされるが、武士が反するという意味もあるとか、ただ単に役人の書き間違いの言い訳が定着したとも。 この年の10月に明治に改元される。ちなみにこれから明治13年頃まで、大坂市中の多くの神社が政情不穏などの理由により、夏の祭礼は中止される。
1868 03月28日。神仏判然(分離)令施行。常安寺を破却する。この時に梅塚天満宮がどのような扱いを受けたのかは資料が残っておらず不明。
明治四年 1871 上知令施行。境内地を除く社地没収せらる。梅塚もその対象となったと考えられる。跡地は道路や民間に払い下げとなる。ちなみにこの年、大阪天満宮の天神祭が慶應四年以来、3年振りに斎行されている。遣梅式(けんばいしき:大阪天満宮の天神祭に際し、当宮の梅ヶ枝を授与する神事)があったとすれば、この年が最後と考えられる。
明治五年 1872 敷地の寄進により御旅所を梅塚の地より才田の地(北梅ヶ枝町、現、西天満6丁目阪急交通社周辺)に移す。 その数年後に現在の茶屋町に移される。この頃から祭礼時の仮のお社である御旅所ではなく、その社殿の規模などから、常に神さまがおられるという意味で、御旅社と呼ばれるようになる。
明治五年頃 1872 この頃、御本社本殿を再建。木造檜皮葺の立派な社殿として親しまれる。
明治六年 1873 04月。御旅社鳥居奉納。現存。 この頃に茶屋町に遷座したか。
明治七年 1874 05月21日。大阪神戸間の鉄道が単線開通。併せて二階建て瓦葺の「梅田すてんしょ(現在のJR大阪駅)」が開業。現在の中央郵便局附近にあった。
明治十四年 1881 07月15日。侠客の野口栄次郎の出獄と当宮の例祭日が同日だったので喜んだ若衆が地車をかつぎ出し、十日間曳き回す。 慶應四年からこの前年の明治十三年まで、大坂市中は政情不穏などの理由により、多くの神社では夏祭が中止、もしくは規模縮小されており、当宮の祭礼もこの年まで中止されていたと考えられ、十三年ぶりの祭礼という事で大喜びの大騒ぎとなったと想像される。 また、現在の新梅田シティへ続く地下道は、この野口英治郎が線路を避けて梅田墓地方面へ行く人の為に掘ったものである。
明治十九年 1886 12月。内務省から6月に発令された訓令7号をもとに、宿屋営業取締規則が制定され、木賃宿の営業を当神社周辺と他六ヶ所(難波村字南川原・木津村ノ内・北平野町七、八丁目・上福島村字羅漢前・北野村綱敷天神附近・九条村字西九条 )に限定される。なお、この布告により劣悪な木賃宿が減ったらしい。 この頃から北野青物市場の規模が縮小したと考えられる。 またこの年、『大阪実測図』の調査が行われ、野崎町横にアドエの小字が明記される。
明治二十二年 1889 3月27日。茶屋町に凌雲閣が竣工する。総高130尺、付属地併せて3900坪という広大な遊園地で、中で食事や宿泊も可能という一大テーマパークであった。メインの高楼が九階建てであった事から、「キタの九階」と呼ばれ親しまれた。と同時に、それまで粋人の集うところであった鶴乃茶屋の経営が不振となり、暫く後から高級下宿業を始め、野田九浦などの大阪画壇を賑わす画家の集うところとなった。
明治二十四年 1891 歯神社社号の石碑建立される。現存。この頃、当綱敷天神社の飛地末社となったか。
明治二十九年 1896 第52代宮司・白江敬正(当時露天神社社掌を任ず)八王子神社(大阪市東成区中本4丁目2−48)社掌を兼任する。以後20社あまりの神社の社掌を兼任する。
明治三十三年 1900 白江敬正、都島大字澤上江の村社十五社(現在の大阪市都島区都島本通1−5−5の都島神社。十五柱を祀るので十五社といった)を兼任する。
明治三十四年 1901 07月。梅田駅(現・JR大阪駅)改築。この頃より大阪の玄関口として北野村が大きく変わる。
明治三十七年 1904 白江敬正、東成郡榎本村、比枝神社(現在の大阪府大阪市鶴見区今津中5丁目5−23)を兼任する。
明治三十八年 1905 白江敬正、東成郡鯰江村、皇大神宮(現在の大阪府大阪市城東区今福南2丁目12−31) 並びに 中河内郡三木本村、樟本神社(現在の八尾市木の本1-59)を兼任する。
明治三十九年 1906 白江敬正、東成郡鯰江村、新喜多神社(祭神:仁徳天皇 明治40年に桜宮に合祀される)を兼任する。
明治四十年 1907 内務省告示により、神饌は熟饌から生饌とされたが、当社の宮座は告示をよりも古式の伝承を重視して、本殿での秋祭においては熟饌で神饌を供した。現在も熟饌を献る。 同年、兎我野町にあったという若宮八幡神社が桜宮神社に合祀される。
明治四十二年 1909 07月31日午前04時20分。北区空心町2丁目から出火。瞬く間に天満界隈をはじめ北区の大半が焼け野原となる。俗に言う「キタの大火」。当神社のすぐ近くまで火の手が伸び、あわやというところで火の手が納まり収束した。
明治四十三年 1910 03月10日。阪急電鉄が開通(開業は1907年)。以後、梅田が激変する。茶屋町の菜の花畑もこの頃消失か。
明治四十五年 1912 新淀川の開削工事が完了する。これにより与謝蕪村の毛馬村は水没し、それまで地続きだった十三とは川を隔てる事となる。しかし、この開削により現代まで梅田は洪水に遭っていない。
大正二年 大正 1913 01月。道頓堀浪速座において、中村鴈治郎一座が、当社、綱敷天神社の由来を脚色した「菅公」を上演。
大正四年 1915 11月。大正天皇の御即位を記念し、御本社に青銅製の獅子狛犬奉納。同じく御旅社に社号碑奉納。現存。
大正八年 1919 07月。茶屋町芝田町の氏子中より御旅社獅子狛犬奉納。現存。
大正十四年 1925 春狂言「菅公」が中座で中村鴈治郎、嵐巖笑演出により上演。これに先立ち出演者一同当社参拝。 この狂言「菅公」とは恐らく歌舞伎「菅原伝授手習鑑」の誤記と思われる。
1925 07月。祭礼紀念として御旅氏子中より大燈籠奉納。昭和59年の御旅社整備の際に御本社に移動。
大正十五年 1926 07月05日。阪急北野線が開通。茶屋町駅が現在の阪急梅田駅の茶屋町口付近に設けられる。
昭和二年 昭和 1927 京都帝国大学教授、西田直二郎文学博士が公式調査として当宮を調査。現存史料の多くはこの時のものによる。 また御綱もその編み方の特徴から少なくとも近世以前のものであり、本物と判定される。
昭和三年 1928 昭和天皇御即位を記念し、本社南面に奉納者名を石刻した御塀を建立。一部戦災で欠損するも現存。
昭和四年 1929 04月15日。日本初のターミナルデパート、阪急百貨店梅田本店が開業。この後、東通商店街を中心に東梅田の開発が進む。
昭和六年 1931 11月。大阪市長關一の発案により、1928年から工事が続いていた、復興大阪城が落成する。
昭和九年 1934 大阪府学務部より『郷社現行特殊慣行神事』刊行。当社神事の詳細を記載。
1934 09月21日。第一室戸台風上陸。大阪市内に多大な被害をもたらす。四天王寺五重塔倒壊。高潮は大阪城まで逆流した。最大風速60m。 当宮でも何らかの被害はあったと思われるが、戦災で史料等々は既になく不明。
昭和十一年 1936 02月21日。河内大和地震。M6.4。死者9人。市内でも大きく揺れ、東京では大阪の市場が潰れたとデマが飛び交った。
昭和十五年 1940 07月。戦時下の土木建築の粋を集めた大阪駅が落成
昭和十六年 1941 03月。共米會というお米屋さんの会より石燈籠奉納。現存。
昭和十七年 1942 07月。歯神社石碑修復される。この頃、現歯神社社殿建立か。もしくは修復か。
昭和二十年 1945 03月13日午後23時57分〜03月14日03時25分。第1回大阪大空襲により御本社罹災、社殿、社務所を全焼する。
1949 10月。御本社幣殿釣燈籠を津田長治氏、水野久市氏より奉納される。戦後間もない時期に梅田の復興第一号として明かりが灯される。現存。
昭和二十五年 1950 09月03日。ジェーン台風襲来。大阪湾周辺では高潮被害がひどく、当宮周辺では風害が凄まじかった。
昭和二十八年 1953 御本社復興の再建工事に着手
昭和三十一年 1956 07月。社殿、社務所、その他付属建物一切竣工成る。正遷座祭斎行。これにより御本社復興
昭和三十二年 1957 07月15日。中野常三郎氏より注連柱奉納。市内最大のもの。
昭和三十六年 1961 07月15日。(株)阪急百貨店より御旅社燈籠一対、本殿釣燈籠奉納
1961 09月16日。大阪に第二室戸台風襲来。この2年前の伊勢湾台風の被害があまりにも甚大であった為、対策を講じていたので、人的被害は少なかったものの、猛烈な風による倒壊などは凄まじかった。当宮においては社務所の屋根瓦が飛ぶ被害を被る。
昭和三十七年 1962 阪急線拡張に伴い、御旅社境内地を整備、社殿造替。
1962 02月21日。小松原の大火。東通り商店街で大火事。この火事を機に多くの小店舗が姿を消した。
1962 04月29日。昭和天皇還暦奉祝記念として氏子崇敬者より御本社本殿内に大釣燈籠一対奉納
1962 07月13日。御本社、本殿庇の釣灯籠奉納式
1962 10月14日。喜多埜稲荷講講旗入魂式。御火焚神事が行われた事が確認できる最後の記録。
昭和三十八年 1963 01月01日。喜多埜稲荷講により稲荷社表鳥居奉納
1963 07月15日。金本梅吉氏より御本社本殿釣燈籠一対奉納。昭和24年奉納の釣燈籠と同じ型で、現在幣殿釣燈籠として現存。
昭和三十九年 1964 10月10日。東京オリンピック開催記念に国旗掲揚塔を角田町高垣町親興会より奉納。
昭和四十年 1965 10月03日。本社復興10周年の記念に本野光三氏(俳号五桐)より歌碑奉納
昭和四十一年 1966 07月14日。本社復興10周年記念に本野光三氏より、随身門釣燈籠奉納。随身門もこの時竣工か。
昭和四十三年 1968 10月23日。明治百年を記念し、本殿前石燈籠奉納
昭和四十四年 1969 1970年の日本万国博覧会の開催に伴い、新御堂筋が敷設される。計画自体は戦前からあったが戦災などで頓挫していたのを、実行したものであるが猛烈な反対運動もあった。この道路の出現によりそれまでの北野村、曽根崎村の境界線がこの道路を基準とされてしまうようになり、この頃から住宅地が激減し当宮の氏子数が減少していく。
昭和四十九年 1974 05月29日。谷町線の東梅田〜都島間が開通。当宮に最も近い駅として中崎町駅が開業する。
昭和五十二年 1977 07月15日。一千七十五年半萬燈祭斎行、復興20周年、御在位50年を記念し玉垣奉納。
1977 10月14日。一千七十五年半萬燈祭の一連の奉祝事業として、
・阪急グループと(株)山下組より手水舎奉納
筆塚を(株)山下組 中野隆雄氏奉納。
従軍紀念碑も中野恒三郎氏の願意により発掘整備する。
・御本社本殿鈴ノ緒新調
・北野天満宮 宮司 香西大見氏揮毫による御本社社号建立
半萬燈祭の一連事業であった。
昭和五十四年 1979 10月。玉姫講中より玉姫稲荷神社の由緒を記した石碑奉納
昭和五十八年 1983 07月05日。小松原町の楠本氏を中心に氏子崇敬者により子供神輿奉納入魂祭斎行。また北野天満宮宮司片桐勤氏より「和魂漢才」の揮毫を拝領
1983 10月01日。大阪城築城400年記念掲揚塔を角田町振興町会より奉納。建立奉告祭斎行。
昭和五十九年 1984 12月03日。再び御旅社境内地を整備。社殿、社務所併せて竣工(11月15日定礎式)。正遷座祭斎行。
昭和六十年 1985 01月。御旅社に氏子崇敬者より神牛像奉納
1985 08月20日。綱敷天神社 由緒略記を刊行する。
1985 昭和天皇御在位60年を記念して御本社南壁に掛燈籠を設置。
昭和六十一年 1986 10月15日。復興30周年並昭和天皇御在位60年を記念して『綱敷天神社誌』を刊行。また秋祭神饌図録も製作。
昭和六十三年 1988 06月。嶌野美智子氏より喜多埜稲荷神社蝋燭燈明台奉納
昭和六十四年 1989 01月07日。昭和天皇崩御。以後平成となる。諒闇に伏し、この日と02月24日大喪の礼の日の両日、社殿閉門。
平成二年 今上 1990 11月22日。御即位践祚大嘗祭御大典奉祝記念奉告祭。併せて地車入魂祭斎行、併せて御大典絵巻奉納。
1993 06月09日。春宮、徳仁皇太子殿下ご成婚。奉祝事業として御本社本殿前の水銀灯を付け替え
1993 10月。黒田義信氏、長村稲生氏により御旅社玉姫稲荷神社鳥居奉納
平成六年 1994 12月03日。御旅社竣工10周年記念祭典斎行
平成七年 1995 01月17日。阪神大震災。白龍社灯篭が倒れ、社務所屋根がずれる。
1995 震災でずれた御本社社務所の瓦の全面葺き替えと、社務所壁の耐震補強を行う。
平成八年 1996 10月15日。御本社復興40周年記念祭典斎行
1998 09月14日。綱敷天神社ホームページ運営開始。
1998 10月15日。綱敷天神社縁起絵巻奉納奉告祭。(於御旅社) 11月、ヘップファイブ開業。赤い観覧車が梅田のシンボルタワーとなる。
1999 05月28日。相次ぐ賽銭泥棒の被害や、風雨による老朽化の激しかった歯神社玉垣、鳥居を修復
平成十二年 2000 04月。放火により歯神社社殿正面部が焼ける。前年修復の鳥居玉垣は辛うじて難を逃れる。
2000 老朽化が激しく、欠落が多くなっていた随神像を修復する。
平成十三年 2002 05月。歯神社正遷座祭斎行
2002 07月15日午前11時。 一千百年大萬燈祭斎行。 これより以前の07月13日に北野天満宮より御燈明の為の御神火拜戴
平成十六年 2004 02月。大阪市の道路計画により御本社裏手を整備
2004 05月。御本社に斎館竣工
2004 12月21日。御本社神具庫竣工
2005 01月。真田昭三氏より御綱の御筥の為の御茵御畳奉納
2005 10月。NU茶屋町オープンに伴い、御旅社裏手整備
平成十八年 2006 07月15日。御本社復興50年祭を斎行
2006 10月15日。小畑清氏より太刀一腰奉納
平成二十二年 2010 03月31日。11:30。梅田北ヤード地鎮祭斎行
2010 07月24日。およそ140年ぶりに、大阪天満宮の天神祭に際して、当宮御旅社(梅塚)の梅を遣わす「遣梅式(けんばいしき)」が再興される。この遣梅式という名称は、下賜でもなく奉献でも無い、当宮と大阪天満宮の対等のやりとりである為、梅ヶ枝を遣わすという遣唐使的な感覚の神事である事を鑑み、この神事復興にあたり、新たに考案された神事名である。(それまでの呼び方は史料が無いため不明)
平成二十三年 2011 07月06日。献燈祭。この年03月27日に茶屋町・鶴野町で行われた菜の花のイベントの為に茶屋町の梅田東小学校跡地で育てられた菜の花を引き続き育てて、06月18日に出来た菜種から油をしぼり、採られた純粋な茶屋町産の菜種油が鶴乃茶屋倶楽部、ヤンマー(株)の連名で当宮に奉納された。これを用いて燈明を灯す献燈祭が執り行なわれる事となった。茶屋町では、明治22年(1889)から明治45年(1912)の頃までは菜の花畑はあったと考えられるので、約100年ぶりに甦った茶屋町産の菜種油である。



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