【由緒略記】 (昭和六十年(1985年)刊行)
当社創建の事蹟は悠遠の時代に属し、中古の擾乱に会い、記録散逸して之を審らかにし難し。然し本社所蔵の縁起書並に古書等の伝ふるもの、また古伝たるを失はず。今これらに依りて由緒の大略を記述せんに、当社は嵯峨天皇の弘仁十三年兎餓野に行幸あらせられて一宿を過ごさせ給ひしことありけるにより、同天皇崩御の後、左大臣河原院源融公(同天皇第十七皇子)御追悼の余り承和十年天皇假殿の跡、すなわち現在の社地なる字神山に社殿を創建し、天皇の尊像を自ら作りて奉祀し、社名は御諱神野の二字を採りて『神野太神宮』と称せられたり。
当社を『北野天神』と称するは菅原道真公を祀れるによるなり。醍醐天皇の延喜元年正月二十五日、菅原道真公、無実の讒言によりて太宰の権師に左遷せられ、筑紫に流され給う。公、御船に召され摂津国浪速の掟の川尻、すなわちこの北野の地に御船着きたり。船より上がらせたまい、一樹の梅の色、殊に今を盛りと咲きしに御心うつされ、昔、仁徳天皇この浪速の梅を御賞翫ありし、賢き御代のためしも恩召されければ、この梅のもとに、しばらく船の綱を解きたくりてその上に御座をかまへ賞玩あり。その時詠じ給う御歌「世につれて難波の入江濁るなり、道明らけき寺ぞ恋しき」それより此所を代々に伝へて梅塚といふ。この時、所の農民よりゆりわといへる器に団子を盛りて公をもてなし奉りしに、甚御賞美せられしとなり、その例によって今に神事祭礼の時、ゆりわに団子を盛りて神供とし奉る也。その時の従者、度会春彦及びその男、春茂の一族六人、此所まで供奉したりしを御側近く召され、汝ら一族は此所に留まるべしとて自ら御影一?を書き給い、我霊魂爰に留まりて擁護の憐をたれんと御遺訓を残され、御影をこの一族にたまふ。
第六十六代 一條天皇の正暦四年に至り、正一位太政大臣を贈られければ、この時この喜多埜にも神殿を建立し、産土神とし、且つ嵯峨天皇の聖霊に合わせ祀り、恒例の神事怠慢なく神慮をすすめ奉る。然るに、暦応年中、兵火のために社頭神宝、悉く焼失せり。されども悦ぶべきは綱敷の御影、幸いに恙無かりしによりて今に至るまで連日神供を奉る。されば縁起書には、「一念恭敬の輩は、或は火難、或は無実の難、立所にまぬかるべき事うたがひ有るべからず」と記せり。尚、白江家一族は度会春彦の後裔にして世々当社に奉仕す。公の御影像、及びその座に充てし麻綱は今なお存す。綱は薄茶色にして長さ一丈八尺四寸、太さ二寸七分なり。京都帝国大学教授、西田博士は「この縁起等によって見るに、本社の菅原道眞公を祀るは公の筑紫左遷の時にあり。菅公左遷の道は京都より淀川により浪速の地を過ぎり給へりと云ふ。北野の地は当地淀川に沿ふ交通の要枢にあたれり。従って神地がまた菅公左遷の途に因縁あるは想像すべきなり」と調書に記されたり。」
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