【御祭神由緒紀】 (昭和二年(1927)刊行)
         京都帝国大学教授 
          西田直次郎文学博士 著

目次
1、祭神御事歴
2、由緒
 1、祭神
 2、創立
 3、本社と太融寺との関係
 4、本社の信仰ーその1
 5、本社の信仰ーその2
 6、本社の信仰ーその3
 7、本社の信仰ーその4
 8、本社の信仰ーその5
 9、社家及宮座

附 旧境内、古文書写真集


(1)、祭神御事歴

1、祭神

  嵯峨天皇
  菅原道眞公

2、祭神御系図並御事歴
 
 嵯峨天皇

神武天皇・・・桓武天皇━┳平城天皇
                ┃
                ┣嵯峨天皇
                ┃
                ┗淳和天皇

 嵯峨天皇は第52代の天皇にましまして、延暦5年(西暦786年)9月7日御降誕。
御名は神野、桓武天皇第二皇子。御母は贈太皇太后藤原乙牟漏。
大同4年(809年)4月御即位。在位14年。
弘仁14年(823年)4月皇太弟大伴(淳和天皇)に位を譲られる。
承和9年(842年)7月15日崩御。御寿57。山城國葛野郡嵯峨村大字上嵯峨の嵯峨山陵に葬る。
天皇幼にして聡敏、好んで書を読み給い、長ずるに及び博く経史に通じ、詩文を善くし書法に巧みなり。
世に三筆と称せらる。天皇在位の間始めて賀茂斎宮を置かれ、また青馬節会、御斎会内論議、内宴等始めて行わる。

 菅原道眞公

宇庭ー古人ー清公ー是善ー道眞

 菅原道眞公は是善卿の御子。御名は阿古。
承和12年(845年)6月25日御誕生。
幼にして聡明、文人として出で、宇多天皇に遭遇して直ちに登庸せられ、位将相を極め頗る治体に諳練し、裁決流れるが如し。
延喜元年(901年)正月25日。俄にして大宰権帥に左遷せらる。
同3年(903年)、2月貶所に薨ず。御年59。
天暦(950年頃)年中、民間祠を北野に建てて天満天神と云う。
後世天神と云えば殆ど道眞公に限るが如き状況を呈すに至れり。
三代実録、菅家文草、類聚国史等の編著あり。


(2)、由緒

1、祭神

 綱敷天神社は、現在大阪市北区神山町にあり。この地は元、摂津國西成郡北野村だったので、北野(村)天神社とも称されていたが、今は綱敷天神社の名で遠近に知られる。
 祭神ニ座にして菅原道眞公を祀り、また別に嵯峨天皇御神霊一座を斎き奉る。
旧境内社として、左記の祭神を合わせ祀る。

 皇大神宮ー天照大御神

 六社相殿
  応神天皇、春日大神、住吉大神、
  天穂日神、蛭子大神、大国主大神

 相殿社
  猿田彦大神、紅梅殿、白太夫神霊

 稲荷神社
  宇迦御魂神

 事平手力雄神社
  事平神、手力雄神

 歯神社(境外末社)
  宇迦御魂神

2、創立

 当社の創立については、伝えるところ、嵯峨天皇皇子、左大臣源融公、摂津國に太融寺創建の時、その域内に社祠を営み、嵯峨天皇を奉祀したことに始まる。
 その後、菅原道眞公筑紫への左遷にあたり、浪速の川尻に船を繋ぎ、太融寺へ詣で給う時、梅の樹の下に船の綱を敷きこの地に御座をかまえられた。これにより綱敷天神社の名興ると云う。
 当社創建の事蹟は悠遠の時代に属し、また中古の擾乱に会い、記録散佚して審にし難し。
然し当社所蔵の縁起書、古書等の伝える事蹟も古伝たるを失わず。ここにその文を記す。

 摂州西成郡南中嶋喜多埜村 
  天神宮綱敷御影略縁起

 当社天満大自在天神、北野村に御鎮座の始めを尋ねるに、第60代醍醐天皇の延喜元年正月25日、菅原道眞公左遷のことに由来す。
 菅公、右大臣の右大将となり、才徳古今に秀で、天子を補佐し、股肱塩梅の臣となりしが、君子の治世を佞臣の乱す習いで、無実の讒言により左遷の宣旨を受け筑紫に流され給う。
淀の渡りより御船召され、摂津難波の津、この北野に御船着きたり。船より上らせ給い、一樹の梅、今を盛りと咲きしに御心をうつされ、昔、仁徳天皇この浪速の梅を御賞翫ありし、賢き御代のためしも思召されければ、この梅のもとに船の綱を解きたくりて、その上に御座をかまえられる。
 それよりこの地を代々に伝えて梅塚といい、綱敷の社とあがめ奉る。(梅塚は、今は当社境内より半町程南の常安寺内に有り)この時、村の百姓ゆりわという器に団子を盛り、もてなし奉りしに、甚だ御賞美なされしとなり。
その習いに従い、今も神事祭礼の時ゆりわに団子を盛り、神供として奉るなり。
ここより河内の國、道明寺の伯母御前に形見の御冠を贈られ、その御文に歌を詠じ給う。
 
 世につれて難波入江もにごるなり
  道明らけき寺ぞ恋しき
 
 また老従、白江の何某という一族6人、ここまで供奉したりしを御側近く召され、汝ら一族はここに留まるべしとして自らの御影を書き給い、我霊魂ここに留りて擁護の憐をたれんとと御遺訓を残され、御影をこの一族にたまう。
さて、鶏鳴き出て、舵取りの者、御船を催しければ、

 啼はこそ別れをいそげ鳥の音の
  きこえぬ里のあかつきもかな

と詠じさせ給う。6人の者、主君に別れることの本意ならずといえども、御遺訓の重きに従いてこの地に留まりぬ。
この白江の一族、それより永くこの地に留まり、社をまつり綱敷の御影と号し、当地の産神とあがめ奉る。一族の子孫、今に伝えて宮座と号す。

 これより菅公、御船に召され配所の筑紫に着せたまい、太宰府に御座ある間3年にて御年59歳、延喜3年2月25日薨逝し給えり。その後、かかる忠臣に罪を着せ配所に赴かした佞奸の輩の政事を執る事、天がこれを怒るが如く、都に洪水、雷火の激しきこと度重なり異変を生ず。帝これをお歎きになり、年号を延長と改め、道眞公流罪の宣旨を焼き捨て、官位を元の大臣に帰し天満大自在天神と崇められる。
その後、66代一條天皇の正暦4年(993年)に、洛陽の北野に正一位太政大臣を贈られければ、この時この喜多埜にも社を再建し、綱敷天神と号し奉り、恒例の神事を怠りなく神慮をすすめ奉る。然るに暦応(1340年頃)の年中、兵火のために社頭神宝悉く焼失せり。
されども悦ぶべきは綱敷の御影、幸に恙なかりしによりて今に至るまで連日神供を奉る。されば一念恭敬の者は、或いは火難、或いは無実の難も立ち所にまぬがるべき事、疑いあるべからず。
 当社はその地名を喜多埜の3字に書くが、天慶(938〜945年)年中、京の北野に社殿を構えしにより音声の通ずるを以って、近世は北野と2字にも書くなり。
 まことに奇特無双の霊社異験なるに、ここにその略縁起を述べるなり。

  享保14年巳酉年4月朔日
             林九兵衛通故艸
             河野武右衛門中道書之

 本縁起は徳川時代の記録であるが、古伝をよく蒐集している。当社は他にも縁起2巻を所蔵する。
これらの縁起によれば、本社が菅原道眞公を祀る由来は、公の筑紫左遷の時に遡る。菅公左遷の道は、京都より淀川を下り浪速の地に至るという。北野は、淀川に沿う交通の要枢の地にあたる。
従って神地が菅公左遷の途に因縁あるのは十分に考えられることである。
 思うにこの神地は古くは北野村に属し、上古の地形で淀川の北岸にあたる。上古の浪速が崎、即ち現在の大阪市東部にある大阪城一帯の丘陵地の北に位置しており、その間を淀川と昔の大和川が合流し浪速の入江に注いでいた。
 当地は一方で、山城、河内、大和の交通を結ぶ要所であり、他方、三国川に沿って北摂及び西国に至る要路でもあった。
また、より古くは摂津の兎餓野であり、『仁徳天皇記』に見えるように、仁徳天皇が秋の夜すがら兎餓野に鹿の鳴く声を聞かれ、憐れみの情を覚え給いしに、後に狩人がその鹿を射ち天皇に献上したことを知って悲しまれた、という話で知られる所である。菅公左遷の時代に於て、当地の地理状況は以上の通りである。綱敷天神の所伝に資するものとして考えることができよう。

3、本社と太融寺との関係

 本社が嵯峨天皇を斎き奉るのは、本社と近接する太融寺との関係による。太融寺は大阪市北部の名刹である。
その創立の事蹟に関わる史料は、度重なる火事で失われたものが多いけれども、同寺所蔵の寛文10年(1670年)、源重村記する縁起によれば、当時は嵯峨天皇の弘仁12年(821年)、弘法大師の創建といい、大師並びに嵯峨天皇賜う千手観音と大師自ら霊木によって刻める地蔵尊とを安置する。

 嵯峨天皇崩御の後、天皇の皇子、左大臣源融公、七堂伽藍を興して寺運興隆に向う。その後兵乱により荒廃、応保3年(1163年)大林房相眞を以って中興第一世とし、以後今日に至るまで浪速の名だたる霊場として知られる。
故に当寺は嵯峨天皇の勅願寺として、早くから寺運盛大であり、今日伝蔵する寺宝について見ても、往古の様子がよく窺える。その内で注目すべきものの一つに、足利尊氏の寄進状一通がある。その文に云わくー

 当寺ハ者河原ノ左大臣融公ノ草創一天不二ノ霊場也。依テ(レ)有ニ(二)心願(一) 寄 附ス摂州倉橋ノ庄一分ヲ(一)祈リ(二)天下泰平ヲ(一)併欲ス(レ)遂ント(ニ)二世安全之願ヲ(一)依寄附状如件。
    建武元年8月朔日  尊氏(花押)

 同文は原本ではなく、後世の写しであるが、その写しも近代のものではなく賜蘆文庫の文書に収録され、また『大日本史料』にも採録されている。これによれば、当寺が嵯峨天皇の皇子河原左大臣源融公の草創であると云われるのは、建武時代よりも遡ることが分る。

 綱敷天神社が嵯峨天皇の御木像を斎き祀るのは、太融寺との関わりによるものであり、また両社寺及びこの周辺が一地区を形成していたことは、その地名に於て、神社の地を「神山」(現在神山町)と云い、その南に隣接して「寺山」、その西に「堂山」(現在堂山町)、その北に「堂の後」と云っていたことから分る。(写真第27・旧地図参照)
その他、仁王門等の字は既に寛延年中(1750年頃)の古地図に見ることができる。この一大寺院こそは、現在その一部として残る太融寺を指すもので、かつてこの周辺は皆、太融寺の境域であったに違いない。
 このように当社は、往古より太融寺との関わりを深くしており、そのことは神仏融合の事蹟に於ても明らかである。
天満宮の多くは本地仏が観世音菩薩であり、北野天満宮も同じであるが、一方太融寺の本尊は千手観音菩薩であり、当寺との関わりに於て、本社境内でも明治以前に、観音堂が建てられていたことがある。
当社には社地内観音堂再建に関する多くの記録文書を残している。(写真第19参照)

 その他、本社附近にある常安寺、梅塚も本社と特に縁故のあるところで、この梅塚は菅公左遷の時、梅の樹の在った所と伝えられている。
大阪天満宮の有名な神輿渡御の際、必ずこの梅の一枝を折り来り神殿に祀り、その後に渡御を行うのが慣わしだったという。
ここも古くは太融寺の境域内にあり、本社との関係の密なることが知られる。今日でも太融寺は綱敷天神のため祈請を籠ることを行事の一つとし、古来からの慣例として怠ることがないと云う。

4、本社の信仰ーその1

北野(村)天神社は、中古の事蹟に関わる史料が少ないとは云え、『摂陽群談』によれば寛正2年(1461年)、ここに一夜にして七本の松を生じ、これを洛北の北野天満宮に告げ奉り、勅旨により当社の造営をなすと云う。
これは古伝として考えるべき点もあるが、足利時代の末期に天神信仰が起こり、諸国にも多くの天神社が造営されており、この頃当社も興隆の時を迎えたのであろう。
 大阪は豊臣秀吉の時代に繁栄し、大阪城が築城される。当社がこの頃大阪城北部にあったことは、片桐且元の検地で、本社社地について特記されていることからも知られる。
 北野村は大阪城築城にあたり、城北の淀川を隔てて近くに位置している。城外地の繁栄につれ、この地も発展し神社への崇敬も強まる。特にこの神地は城下町より西国に通じる西国街道に沿ってあったので、これも信仰の発展に大きく寄与していた。(写真第26、27、29参照)
 片桐且元は大阪城奉行の時、周辺の地を検地している。慶長13年(1608年)、当社地は神域として除地される。(写真第11参照)
この記録は北野村代々の庄屋が保持してきたが、それは本社の世襲祠官、白江氏の所蔵する諸記録によって知ることができる。(写真第12、13参照)
 片桐且元の除地朱印の原本は今日では既に散佚しているが、他の記録により除地の記録を確かめることができるのである。
 白江家所蔵の旧北野村の史料に、
  摂州西成郡北野村検地帳
     延宝5年11月晦日  一冊
 がある。これは延宝年間(1673〜80年)青山大膳亮の時、検地奉行、山口治部右衛門等の検地記録であり、その中に当社についてはー

  一、壱反三畝弐歩 弐拾八間 拾四間 天    神宮地
    是ハ慶長十三申年片桐市正検地之節
    除之但除来侯證文無之
  一、壱反弐拾歩畝 九間五尺五寸 五間五    尺九寸 八幡宮地
     (右に同じ)
  一、四畝弐拾四歩 拾六間 九間 太融寺    屋敷
     (右に同じ)

と記され、天神社地が太融寺の寺地と共に除地されていたことを示す。同文に見る如く慶長13年の証文は、既に延宝年間には散佚しているが、北野村の記録は、元和6年(1621年)以後はほぼ残されていると云ってよい。(写真第14、16参照)

 思うに、慶長の検地後間もなく大阪冬・夏の陣があり、浪速の町一帯が兵火に会い、そのため当社も文書類を失ってしまったと考えられる。
 大阪の役の後、徳川幕府は市街の復興に努め、当神地は先例に従ってその後多くの保護を受ける。延宝に次いで貞享5年(1689年)、
享保16年(1732年)の検地でも、社地が除地されている。享保に関しては、
 宮除地高諸事留帳  宮座
    享保拾六年亥極月吉日  一冊
があり、これによるとー

 一、壱反三畝弐歩 弐拾八間 拾四間 当村    氏神天神宮地
    是ハ慶長十三年申年片桐市正様御検地    帳除地ニシテ延宝五丁巳青山大膳亮様    御除地帳ニモ古来ノ通リ除地罷成侯
 一、屋舗四畝歩  氏神神子屋敷
 一、屋敷五畝歩  同別当屋敷
    右二ヶ所古来ヨリ除地ニシテ氏神天神ノ    御神供料ニ相勤来侯処、延宝五年巳年    青山大膳亮様御除地ノ節、御年貢地被     仰付、
    其後元禄十丁丑年長谷川六兵衛様御代    官所ノ時、御勘定所證文ヲモッテ古来ノ    通リ除地ニ被仰付宮座六人御神供料ニ     相勤申侯

とあり、享保の記録として当社の状況を知ることができる。(写真第10、第11参照)
 また同社の所蔵文書中に、寛延3年(1750年)作成の「当村領境総絵図」がある。庄屋四五右衛門、同弥次兵衛以下年寄4人が連署し、「此度村方領境地委細書付惣絵図相改申侯」とあるように、この年の北野村領地の詳細な地図である。これには、太融寺の東北に隣接して、常安寺天神御旅、梅塚、その北に近く北野天神が書かれている。またそれらを示す字は、梅塚のあるところ「寺山」、北野天神のあるところ「堂山の内」となり、「仁王門の内」は現在太融寺門より南一円を示し、堂山、寺山と隣接している。(写真第27参照)
 他に、宝暦年間の地図、及び安永8年、北野村庄屋弥次兵衛、同甚助、年寄四郎左衛門以下二名の連判した地図があり、同様に当社、北野天神が太融寺の近くにあって名の知れた神社であったことが分る。(写真第28、29参照)
 更に徳川時代に刊行された大阪の町絵図で北部を書いているものには、いづれも天神、若しくは北野村天神として当社が記されている。
正確で最古の町絵図と云われている貞享4年(1687年)版の「新板大阪大絵図」に於て、北野村に天神社が書かれているのはその一例である。(写真第26参照)

5、本社の信仰ーその2

 当社は現在、北区の市中にぎやかな所に神地を占めるとは云え、大阪三郷の外にあり。しかし、神威あきらかにしてその名遠近に知られ、大阪天満宮と共に世に伝えられる。天満宮の神輿渡御にあたって、もとは当社の境域にあった梅塚の梅枝を祀る習いによるばかりでなく、篤信者の参拝多きことを以ってもよく知られていた。ここに、浪速の地誌で当社を記述しているものをいくつか挙げてみよう。

 延宝三年(1675年)刊行のよく知られた『蘆分船』では、

 北野天神
 
 此御神ハ、京北野の聖廟より。四十年余後の造営と也。むかし此所に。一夜に。七本の松生出たり稀代の事なればとて。則太融寺の僧奏聞をとげ。寛正四年の。綸旨等ありと也。又ある説に太融寺太融寺の境内に梅塚というあり。むかし菅丞相宰府へ。左遷の御時。此所に御一宿ありて。詠しさせ給ふ。御歌とて。さる人のかたり侍りつるは
  世につれて難波入江もにこる也
   道あきらけき寺ぞ戀しき
かかるゆえあるによりて。此所に。天神を。勧請し王城の北野を。うつし其名とせるとも。いへりたづぬべし。

 当社が、京都北野社を模して浪速に造営された由来が記されており、早くから北野天神の名で遠近に知られていたことが分かる。(写真第20、21参照)

 延享四年(1747年)の『難波丸』にも西成郡では北野天神が、府社天満宮と並んで記されているが、記述はむしろ天満宮より詳細なものがある。

  北野天神 
 天満太融寺の辺に有 京師北野に模すると
 祭神同前
 此御神は。京師北野の聖廟より。四十四年後の造営となり。むかし菅丞相宰府へ。左遷の御時。此所に御一宿ありて。詠しさせ給う。御歌とて。
世につれて難波入江もにごる也。道あきらけき寺ぞ戀しき。(中略)また太融寺の境内に。梅塚とて有り。此寺は。嵯峨天皇弘仁年中の御勅願寺。
弘法大師開眼供養の道場なり。されば右の御歌に。道明らけき寺とは。河州道明寺の事なり。昔此寺に。菅相丞の御伯母御前。覚寿と申しおはしましける。
菅臣さすらへの時。御暇乞に立よらせ給ひしに。暁の鶏かしましくや思しけん。
 啼くばこそ別れをいそげ鳥の音の
  聞へぬ里の暁もがな
これより後。里には鶏をかはずと申し伝ふる。菅臣伯母御前の許を。別れ給ひて此難波の。やどりに泊り給ひて。伯母御のもとを。
恋しく思し出てよませけるにや。いづれも浅からぬ因縁有がたき御ためしなり。

また『摂陽群談』には

 天神社 同郡北野村ニアリ、祭所右ニ同ジ。此社ハ寛正二年、ココニ一夜ニシテ松生テシカモ梢ニ異光アリ。村民、太融寺ノ別当僧に告テ後、花園帝ニ奏シテ、山城国北野社ニ勅使を賜テ、コレヨリ菅原神霊ヲ勧請シテ北野天神トス。一説、昌泰四年正月廿日、大宰権師ニ左遷ノ時、此地の梅樹ニ戯ヲ成シ、暫時ヲ移玉フ処ヲ、祀祭ルトモ云ヘリ。古木今ニ在テ梅塚ト称ス。

『摂津名所図会』には

 北野天満宮 北野村にあり。諺に云わく。菅公さすらへの御時。福島に御船を繋がせ此所に来り給ひ。難波の梅を愛し給うとぞ。
当社の勧請年歴久し。難波往古の正しき図にも出たり。当社に宮座とて古老の家少々あり。此辺の生土神とす。例祭七月十五日
 梅塚天神 同所常安寺にあり。ここに古梅ありて菅公の御愛樹といふ。紅梅にして樹下に天満神の祠あり。
此寺は初は行基大士の開基にして。今は慈雲山常安寺といふ。天台宗京師梶井御門跡に従う。

 以上挙げたように、当社は名刹太融寺との因縁あるなどして、大阪北部の名社として知られていた。

6、本社の信仰ーその3

 皇室の御尊心については、古老の云い伝えありしが、何れの御代かは定かでない。唯、当社神殿に納め奉る御酒瓶は、皇室の御紋章のみ拜しており、数十年前に一度修理している事をしる古老がいる。修理のためにその古色も失われているが、神宝のひとつとして伝わるものである。
 また江戸時代の信仰について云えば、大阪と西国往還の道に沿い神地があったので、西国諸国は往還の途、当社に参拝するのが常であった。所蔵の古文書に大高檀紙の奉納目録がある。(写真第8、9参照)

 御太刀 一腰
 御 馬  一疋
      以上
        松平安房守
 「裏面」 大綱敷
        戌四月十五日

 右も諸侯の当社信仰の一片として残るものだが、その紙質や書風から考えるに、徳川中期のものと思われる。松平安房守は毛利家にして、豊後海部郡佐伯城主安房守高重である。毛利氏は大阪、天満十一丁に邸を構えていたが、当社の篤信家であった。(延宝版『難波雀』参考)
 その他、当社の縁起は演劇や講談によっても巷間に知られていた。近年では、大正2年1月道頓堀浪速座に於て、中村鷹次郎一座上演の「菅公」が綱敷天神の由来を脚色しており、大正14年春狂言「菅公」(中座、中村鷹次郎、嵐巖笑演出)も天神左遷に於ける浪速の津を舞台にしている。
またその上演にあたっては、当社に参拝するのが慣例であった。

 このように天神信仰に於て、当社はよく巷間に知れ、講談の「天満宮霊験記」など、民間に流布された書物の類も、当社の縁起を述べているものが多い。


7、本社の信仰ーその4

 当社は一方で神徳の衆人教化のため、書籍を発刊している。祭神の聖徳を弘く伝えるため元禄に刊行されたもので、『菅家聖廟伝』という。
大阪の桑原梅性の編になるもので、上下二冊、菅公の生い立ちから天満天神の祭祀に至る精緻な史伝である。末記に元禄15年壬午2月25日、表紙の見返しに 書籍出所 摂津大阪北野天満宮 と刷られている。(写真第22参照)

 また、当社の神霊、菅原道眞公は「風月の本主、文道の太祖」であり、一方嵯峨天皇は我国の三筆の一人であることから、本社は文教の主神として、特に寺子屋より篤く信仰されていた。即ち寺子屋より供米の献納が絶えずあり、明治の初めにまで及んでいた。現在、その供米帳は一冊残っているだけだが、それでも当時の信仰がよく窺える。それは『弘化3年(1846年)3月御供米袋受納帳』で、記載された寺子屋の数をみると、3月中旬より月末に至る間51ヶ所、4月の1ヶ月間で126ヶ所よりの供米があったことになる。寺子屋とは云え、「金五拾疋 長州屋敷」などの名も見え、これは江戸堀にあった長州藩邸の年少の徒からの献金である。その他、京町堀今井、靱の花房、島の内澤井、阿弥陀池の菅原等、当時の有名な学熟の名が見える。
その範囲も、唐物町、堀江、島の内、道頓堀より九條新田、難波、木津川、高津新地、今宮、玉造等各地に及び、寺子屋の帰信が広範囲に亘っていたことが分る。

 寛永2年刊行、香川琴橋著『浪速名勝帖』は、もと大阪城番米倉候世子の勧めにより刊行されたもので、浪速の名勝を挙げ、その由来と景観を教え乍ら、習字の手本としたものだが、北部の名所を記して、 
 夕日の神明、堀河えびす
 河原の大臣の太融寺
 北埜の社は綱敷なり
とあるように、習字帖として使われながら、これらの名勝は庶民の子どもたちにも、よく覚えるところとなったであろう。

8、本社の信仰ーその5

 当社の名が北野天神として、或いは綱敷天神として知られていたのは、種々の名所旧蹟案内から分るが、明和8年(1771年)刊、『天照皇太神宮勧請所十七社』に当社が載せられているのは、普通の名所記の類と少し選を異にしていて面白い。
 天保12年(1841年)刊、『難波巡覧記』では、北部の社寺として、
  天満宮社 てんま十丁目の北
  仏光寺御坊 てんま六丁目
  東照権現御社 川さき
  桜の宮 川さき
  綱敷天神社 西てんま たゆうじの北
  太融寺 北野真言宗
  不動寺
等が挙げられている。簡潔な目録の体裁だが、それが却って、これらの社寺がよく民間に知られていたことを示している。
他に「廿五社の天神社巡拝」「廿一社めぐり」等、種々あり。
 当社の神輿は皆4社あり。その内1社は古く、屋蓋に菊花の紋を置く。高貴なる人よりの御寄進と云う。神輿については、神輿庫改造の御願書に元文6年(1741年)酉2月、当社宮座一同等の連署したものがあり、これによっても古くから在ったことが分る。神輿渡御もまた古儀をよく伝え、装束行列と合わせて当時の盛況が偲ばれる。(写真第24、20、41参照)

9、社家及宮座

 当社は、その祠官の家系も古く相伝えて天神社に奉仕せり。則白江氏は世襲の祠官にして、当社に関する古記録を多く保存する。家伝によれば、白江氏の祖、春茂は菅公左遷の時京都より随従し、ここに来りて一族と共に留まり、後に神祠を営み奉仕するに至れりと。
 白江氏は北野村開発にあたって傍ら里長となり、明治維新に至るまで村治に与かる。所蔵の記録は北野村に関わるもの多く、元和6年頃以降は種々の記録を保存する。
それらの記録に、庄屋又は年寄の役として、白江家系の名が多く見える。(写真第14〜17参照)
 天神社の記録に関して、祠官の家と共に重要なのは宮座である。(写真第15、18参照)
 宮座とは、中古より我国に於て見る「座」なるもののひとつであり、神社に奉仕する特殊の権能を有する家筋の総名である。当社では恒例、臨時の祭儀に於ては、この権能を持つ家々にのみ与かることのできる役である。
 宮座は当村に於て、長く古式を重んじ代々継がれてきた。このことは、村を治めていく上でも影響を与えてきた。白江家は、この宮座に於ても重要な地位を占めてきたが、その所蔵するものに
 摂州西成郡南中島北野村
   旧記問答
等の記録がある。
 宮座の記録によれば、菅公左遷の時、白江の祖随従し来り、ここに留りてその一族6人これを宮座と称するに始まり、800年来御供燈明の神事に仕えり、と云う。
 宮座は前述の如く中古の制度であるが、当社の記録について見れば、既に神事行掌の家職として、徳川時代初期にその規定が遵守されていたことが分る。
 当社所蔵の元文4年(1739年)の「宮座作法規矩」は、木板に記された掟書であり、宮座の性質をよく現すものである。

  宮座作法規矩
 一、恒例ノ神事怠慢有間舗事
 一、正月廿日御弓、九月廿四日当有来ル
    供物怠ル間舗事
 一、年中神式勤来ル通弥可抽精誠事
 一、宮座かぶ子孫多ク候テ、他家ヘ養子ニ
    遣リシ其子ニハ譲リ申間舗事。
    其家カラ各別ニ分レ出候ハバ、其時ノ
    品ニヨリ譲リ可申候。
    モットモ六人ヨリ多ク致候事、古来ノ
    格式有ノ間、其沙汰有間舗事 
    女子ニ譲リ申間舗事
 一、宮座相勤ノ事、無拠儀ニヨリ其品相
    知レ候ハバ座中ヘ三年間預リ置キ、
    其諸役相勤可申候。若シ過候ハバ
    宮座株捨リ可申事。
右ノ趣、古来カラ宮座作法タリトイヘドモ年月遠ク罷成候得バ、万一取違モアルベシヤ、今又新ニ御神前ノ作法板ニ顕然ト明ナル者也。
         時宮座
元文四年未二月廿五日 徳右衛門
                傅右衛門
                治兵衛
                市兵衛

 これを見ても当社の宮座が一定の人数に制限され、またその規約が極めて厳しいものであった事が分かる。規約の厳しさは、元文3年(1738年)に宮座の1人、長左衛門なる者の聟が権利を譲り受けんとして、宮座衆の反対に会い、遂に代官に訴え、また大阪番所及び寺社役所に訴えを起す程であった。
訴訟の結果は宮座衆の勝利であった。

 (参考文書)

  乍恐口上
 布施弥一郎様御代官摂州西成郡
 北野村宮社    傅右衛門
             治兵衛  
一、同村九郎兵衛宮座ノ儀御願申候。此儀ハ拾九年以前、寅ノ年、長左衛門ト申ス者、宮座ヲ得相勤メザルニ申候ニ付、宮座中ヘ三年ノ間預リ置、三年目ニ長左衛門ヘ宮座戻シ可申間、相勤申候處ニ段々断候。得共悪業ノ構ニ成申ニ付、得相勤メザル申候ト申、座中ヘ差出シ申候。
   然ル處ニ十ヶ年以前、右、九郎兵衛ノ儀長左衛門ヨリ宮座譲リ受申候トテ宮座中ニ廻リ申ニ付奉驚。
   此儀ハスデニ七年前、長左衛門仲間ヘ差出シタル宮座株ニテ、其上長左衛門ヨリ宮座中ニ一言ノ付届モ御座無ク、故ニ右、九郎兵衛罷出申儀ヲ差シ留メ申候。此儀ヲ遺恨ニ存ジ御訴訟申上候ト奉存候。此段、聞シ召サレ、右九郎兵衛ノ儀御差留メ仰セ下サレ候ハバ有難ク奉存候
    以上
      元文三年午十二月廿日
              北野村宮座
                  傅右衛門
                  治兵衛
御奉行様

 同訴状を見ても、宮座はその規約が既に成立し、元文の年よりも古く遡るものと察せられる。かくして宮座の規約は代々厳重に守られ、神事全般この規約の下に行われる。
これは明治維新に至るまで継続される。当社に於て、古格の厳守された事例として見るべきもので、当地が市中賑わしく環境の激変する処にあって、かく長く古風を保存せしは、神威の赫輝に拠ると謂うべし。

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