【日本書紀 巻第十一】
            (養老四年(720年刊行)

仁徳天皇三十八年 菟餓野の段

秋七月、天皇皇后と高臺に居して避暑みたまふ。時に毎夜菟餓野より鹿の鳴を聞くこと有り。其の聲寥亮にしてて悲し。共に可憐とおぼす情を起したまふ。月盡に及びて、鹿の鳴聆えず。爰に天皇皇后に語りて曰はく、是夕に當りて鹿鳴かず。其れ何の由ぞと。明日、猪名縣の佐伯部苞苴をた獻る。天皇膳夫に令ちて、問はしめて日はく、其の苞苴は何物ぞ。對へて言さく、牡鹿なり。問ひたまはく、何處の鹿ぞ。日さく、菟餓野のなりと。時に天皇以爲さく、是の苞苴は必ず其の鳴きし鹿なりと。因りて皇后に語りて曰はく、朕比懷ひつつあるに、鹿の聲聞きて慰む。今佐伯部の鹿を獲れる日夜及山野を推しはかるに、即ち鳴きし鹿に當れり。其の人、朕が愛することを知らずして、適逢に?獲たりと雖も、猶ほ已むことを得ずして恨めしきこと有り。故れ佐伯部をば皇居に近くることを欲せずと。乃ち有司に令ちて、安藝の渟田に移郷す。此れ今の渟田の佐伯部の祖なり。
 俗の曰はく、昔一人有りて、菟餓に往き、野中に宿れり。時に二鹿傍に臥す。鶏鳴に及ばむとして、牡鹿牝鹿に謂りて曰はく、吾今夜夢みらく、白霜多く降りて吾身を覆ふとみつ。是れ何の祥ならむ。牝鹿答えて曰はく、汝の出行かむとき、必ず人の爲に射られて死なむ。即ち白鹽を以って其の身に塗らるること、霜の素きが如き應なりと。時に宿れる人心の裏に異ぶ。昧爽に及ばざるに、?人有りて、牡鹿を射て殺しつ。是を以て時人の諺に曰はく、鳴く牡鹿も相夢の隨にと。

▲綱敷天神社 表頁に戻る