【天神宮綱敷御影略縁起】
(享保十四年(1754)刊行)
摂州西成郡南中嶋喜多埜村
天神宮綱敷御影略縁起
当社天満大自在天神、北野村に御鎮座の始めを尋ねるに、第60代醍醐天皇の延喜元年正月25日、菅原道眞公左遷のことに由来す。
菅公、右大臣の右大将となり、才徳古今に秀で、天子を補佐し、股肱塩梅の臣となりしが、君子の治世を佞臣の乱す習いで、無実の讒言により左遷の宣旨を受け筑紫に流され給う。
淀の渡りより御船召され、摂津難波の津、この北野に御船着きたり。船より上らせ給い、一樹の梅、今を盛りと咲きしに御心をうつされ、昔、仁徳天皇この浪速の梅を御賞翫ありし、賢き御代のためしも思召されければ、この梅のもとに船の綱を解きたくりて、その上に御座をかまえられる。 それよりこの地を代々に伝えて梅塚といい、綱敷の社とあがめ奉る。(梅塚は、今は当社境内より半町程南の常安寺内に有り)
この時、村の百姓ゆりわという器に団子を盛り、もてなし奉りしに、甚だ御賞美なされしとなり。その習いに従い、今も神事祭礼の時ゆりわに団子を盛り、神供として奉るなり。
ここより河内の國、道明寺の伯母御前に形見の御冠を贈られ、その御文に歌を詠じ給う。
世につれて難波入江もにごるなり
道明らけき寺ぞ恋しき
また老従、白江の何某という一族6人、ここまで供奉したりしを御側近く召され、汝ら一族はここに留まるべしとして自らの御影を書き給い、我霊魂ここに留りて擁護の憐をたれんとと御遺訓を残され、御影をこの一族にたまう。
さて、鶏鳴き出て、舵取りの者、御船を催しければ、
啼はこそ別れをいそげ鳥の音の
きこえぬ里のあかつきもかな
と詠じさせ給う。6人の者、主君に別れることの本意ならずといえども、御遺訓の重きに従いてこの地に留まりぬ。この白江の一族、それより永くこの地に留まり、社をまつり綱敷の御影と号し、当地の産神とあがめ奉る。一族の子孫、今に伝えて宮座と号す。
これより菅公、御船に召され配所の筑紫に着せたまい、太宰府に御座ある間3年にて御年59歳、延喜3年2月25日薨逝し給えり。その後、かかる忠臣に罪を着せ配所に赴かした佞奸の輩の政事を執る事、天がこれを怒るが如く、都に洪水、雷火の激しきこと度重なり異変を生ず。帝これをお歎きになり、年号を延長と改め、道眞公流罪の宣旨を焼き捨て、官位を元の大臣に帰し天満大自在天神と崇められる。
その後、66代一條天皇の正暦4年(993年)に、洛陽の北野に正一位太政大臣を贈られければ、この時この喜多埜にも社を再建し、綱敷天神と号し奉り、恒例の神事を怠りなく神慮をすすめ奉る。
然るに暦応(1340年頃)の年中、兵火のために社頭神宝悉く焼失せり。されども悦ぶべきは綱敷の御影、幸に恙なかりしによりて今に至るまで連日神供を奉る。
されば一念恭敬の者は、或いは火難、或いは無実の難も立ち所にまぬがるべき事、疑いあるべからず。
当社はその地名を喜多埜の3字に書くが、天慶(938〜945年)年中、京の北野に社殿を構えしにより音声の通ずるを以って、近世は北野と2字にも書くなり。
まことに奇特無双の霊社異験なるに、ここにその略縁起を述べるなり。
享保十四年巳酉年四月朔日
林九兵衛通故艸
河野武右衛門中道書之
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