【キタ 風土記大阪】 昭和三十九年(1964)
                  宮本又次 著

綱 敷 天 神

北野東之町と同兎我野町と同太融寺町との境を接する、太融寺の東南角なる三方辻を「花畳の辻」といった。そばに花屋があったからである。その辻にはもと、音無池の案内を記した建石があったというが、いまは池も建石もない。

太融寺から一丁はど北に綱敷天神があった(北野東之町)。京都北野天神社から勧請したもので、この辺一帯を北野というのはこのためともいう。この地は古くより紅梅樹があって美しかった。仁徳天皇がこの地に行幸され、この紅梅樹を難波の梅と命名された。その後この地に梅塚をおいた。嵯峨天皇が兎我野に行幸された時、一夜ここにとまられたあとに、源融公が追悼のため社殿を建立した。これを神野神社(大神宮)といった。菅原道眞が筑紫へ左遷されたみちすがら、太融寺に詣ったが、この地の梅花をめでるために船の綱を敷いて坐し、小憩したので綱敷の名がおこった。

  「世につれて難波の入江濁るなり、道明らけきみよぞ悲しき」

と詠じた。このとき土地の農民が「ゆりわ」という器に団子をもって、菅公をもてなしたという伝説によって、いまも神事祭礼のときに「ゆりわ」 に団子をもって神供にしている。この時、従者の度会春彦とその子春茂の一族六人は、自刻の影像をもらって訣別し、この地に止まった。そしてこの影像を前記の神野神社に併せまつった。

村上天皇の天暦元年、菅公の廟が京都の北野にたち、やがて正暦四年のころ難波の地にもその神殿をたてることになり、嵯峨天皇の聖霊をも合併した。これが北野天満官である。神官としてこの社につとめた白江氏は度会春彦のあとであると伝える。
暦応年間に兵火のため神宝、社股をことごとく炎上したので、神野神社と北野天満宮をあわせて一社とするに至った。

かつては村社に列せられていて、二月二十五日は梅花祭として菜種神事、七月十五日は夏祭祭礼渡御式、十月十五日には菊花祭をなし、五十年日毎に式典を行う例であった。社殿は戦災にあったが、鉄筋コンクリートにて復興した。




木尾市、野口英治郎と綱敷天神夏祭り

 北野村(いまの堂山町)の屈指の地主木尾市兵衛の長子に野口栄治郎というのがいた。この人は道楽半分で自ら好んで演劇道にはいり、気骨があり、快男児なのであった。御霊神社の定席で、堀江栄治郎といって芝居をしていた。 大林由五郎(のちの芳五郎)は堀江の麹屋又兵衛という呉服屋で丁稚奉公をしていたが、丁稚仲間の福松(福本源太郎)と共にこの芝居をいつも見物して、栄治郎をひいきにしていた。
 堀江栄治郎はのち北の大親分となり、知られていたが、奈良と大阪を結ぶ大阪鉄道の亀の瀬トンネルの難工事に土建屋となった大林由五郎が従事した時、大親分だが、丁度レンガ屋として工事現場に来ていた栄治郎と遇然、出会った。以来、栄治郎は由五郎の身によりそって護衛の任にあたった。

 明治二十四年二月木屋市一家は当時堂島の顔役であった「出店の又」一家と争うことになった。「出店の又」は宮相撲では「綾勇」といい、その勇名は大阪地方一円にひびきわたっていた。初めは木屋市の子分だったが、その剛カはしだいにひろまり、やがて、大阪の北部をナワ張りにするようになった。そして木屋市のナワ張りを荒らすようになった。
 そこで木星市一家は「出店の又」を倒そうと機会をねらい、ついに子分同士のケソカが導火線になって、北区堂山町の金台寺裏で乱闘をおこすことになった。この乱闘は木屋市側の勝利に終ったが、子分数人とともに殺人犯として検挙された。しかし木星市自ら手を下したものではないので、明治十四年七月、栄治郎は予審免訴となって出獄した。この出獄の翌月、木屋市が住んでいた土地にある綱敷天神で夏祭りが行われた。親方の出獄をよろこんだ若者たちはダンジリをひきだして大騒ぎをした。これを聞いた顔役はこのダンジリをめでたいから借りたいと申しいれ、天満では「小松山」天神橋南では「山熊」上町方面では「出歯定」というふうに、つぎつぎと大阪全市の顔役がこのダンジリをひきまわして、ついに十日問に及んだ。そして栄治郎は押しも押されもせぬ大親分にのしあがった。また伝法の「伊之助」、寺町の「淡熊」、梅田の「難波福」、九条の「永福」、新町の「小常」、などそうそうたる親分たちと手を握ることが出来た。
 大林芳五郎は木屋市と兄弟分という仲だったので、この親分たちとも関係ができ、これからも群小のヤクザをものともせず、土木請負業界の改革を押し進めることが出来たのである。

▲綱敷天神社 表頁に戻る