【お】

・大国主命(おおくにぬしのみこと)
・大宜都比売神(おおげつひめのかみ)
・大年(歳)神(おおとしのかみ)
・大直毘神(おおなおびのかみ)
・大麻(おおぬさ)
・太安万侶(おおのやすまろ)
・大祓(おおばらえ)
・大祓詞(おおはらえのことば)
・大本教(おおもときょう)
・大山祇神(おおやまつみのかみ)
・御蔭参り(おかげまいり)
・折敷(おしき)
・おしら神(おしらがみ)
・乙女舞(おとめまい)
・御礼(おふだ)
・御守(おまもり)
・御神籤(おみくじ)
・思金神(おもいかねのかみ)
・折口信夫(おりぐちしのぶ)
・御師(おんし)
・陰陽道(おんみょうどう)

大国主命(おおくにぬしのみこと)
出雲の国譲りの神話の主役の神で、出雲大社の主神である。日本書紀では須佐之男命の御子とするが、古事記や書紀の一書では、須佐之男命の五〜六世の孫としている。

※大国主命には多くの別名があり、多くの妃がある。大穴牟遅神、大己貴命、葦原色許神、八千矛神、宇都志国玉神、大物主命等。
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大宜都比売神(おおげつひめのかみ)
五穀を主宰する神。伊邪那岐命・伊那那美命の御子、保食神と同神とする書もある。

※古事記より
須佐之男命が高天原を追われ、出雲国で食物を大宜都比売神に求めると、大宜都比売は鼻、口、尻、などから種々の食物を出して供したので、須佐之男命は汚い所から出したものを進めるとは何事かと、怒って大宜都比売神を殺した。その死体から蚕と稲、粟、小豆、麦、大豆が生れたこれが蚕と五穀発生の起源である。
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大年(歳)神(おおとしのかみ)
須佐之男命の御子。御子の御年神と共に穀物の守護神。西日本に大歳神社として多く祀る。
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大直毘神(おおなおびのかみ)
 「大」は美称、「直」は曲れるを直す、「毘」は奇き御霊の意。罪穢禍害を改め直す事を掌る神。
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大麻(おおぬさ)
榊(又は常磐木)の枝に麻苧と紙垂をつけた祓の具。祓のときに用いる。榊の代わりに幣棒を用い、紙垂をつけたものもある。(特に祓串ともいう)
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太安万侶(おおのやすまろ)
奈良朝前期の人。和銅四年(711年)元明天皇の勅により、舎人(とねり)、稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦習した旧辞を筆録し、「古事記」を撰した。又、日本書紀の撰にも参加した。昭和五十四年一月二十日、奈良市田原町の茶畑から墓誌が発見されその実在が確認された。
※古事記の序
臣安万侶言す。夫れ混元既に凝り、気象未だ効れず、名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分るるとき、参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて二霊群品の祖と為れり。所以に幽顕に出入して、日月目を洗ふに彰れ、海水に浮沈して、神祇身を漱ぐに呈る。故れ太素杳冥(たいそようめい)なれども、本教に因りて、土を孕み嶋を産みたまひし時を識り、元始綿?(げんしめんばく)たれども、先聖も頼りて神を生み人を立てたまひし世を察にす。…以下略
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大祓(おおばらえ)
大祓は上代からあったが、これが制定されたのは大宝令(701年)、ついで延喜式(927年)で、延喜式には六月、十二月の大祓が記されている。朝廷では朱雀門に文武百官を集め、中臣氏が大祓詞を宣読して祓をした。
この儀は平安朝の末期から次第に衰えたが、民間にあっては六月の大祓は夏越の祓の名で、今日も盛んに行われている。
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大祓詞(おおはらえのことば)
大祓の式でで参集者に読み聞かせる祓の詞である。即ち宣命体の祓の詞である。(類似のものに中臣祓詞があるが、これは奏上体である)
※大祓詞の作者は分らないが、中臣氏の掌るところであったところから、中臣氏の祖天児屋根命といわれている。製作年代は少くとも、日本書紀、古語拾遺のうちに引用されているので、天武天皇以前と見てよい。大祓詞は約九百字であるが、この中に我が国体と天皇統治の在り方、罪穢の祓い方がおごそかに宣言されている。

  ※ 大祓詞全文
      大祓詞
      
高天原に神留まり坐す 皇吾親神漏岐
神漏美の命以て八百万神等を神集へに
集へ給ひ 神議りに議り給ひて吾皇御孫
命は 豊葦原瑞穂国を 安国と平けく
知食せと事依さし奉りき 此く依さし
奉りし国内に 荒振神等をば 神問はし
に問はし給ひ 神掃へに掃へ給ひて 
言問ひし磐根木根立 草の片葉をも
事止めて 天の磐座放ち天の八重雲を 
伊頭の千別に千別て 天降し依さし奉りき 
此く依さし奉りし 四方の国中と 
大倭日高見の国を安国と定め奉りて 
下津磐根に宮柱太敷き立て 高天原に
千木高知りて 皇御孫命の 瑞の御殿
仕へ奉りて 天の御蔭 日の御蔭と 
隠り坐して 安国と平けく知食さむ 
国内に成り出む天の益人等が 過ち
犯しけむ種種の罪事は 天津罪国津罪
許許太久の罪出む 此く出ば天津宮事
以ちて 天津金木を 本打ち切り末打ち
断ちて 千座の置座に置足はして 天津
菅麻を本刈り断ち末刈り切りて八針に
取裂きて天津祝詞の太祝詞事を宣れ 

此く宣らば 天津神は天の磐戸を
押披きて 天の八重雲を伊頭の千別に
千別て聞食さむ 国津神は高山の末
低山の末に登り坐て 高山の伊褒理
低山の伊褒理を掻き別けて聞食さむ 
此く聞食してば罪と言ふ罪は有らじと
科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の
如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の
吹き掃ふ事の如く 大津辺に居る大船を
舳解き放ち艪解き放ちて大海原に
押し放つ事の如く彼方の繁木が本を
焼鎌の利鎌以て打ち掃ふ事の如く 
遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を
高山の末低山の末より佐久那太理に
落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売
と言ふ神 大海原に持出でなむ 此く
持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の
八潮道の潮の八百曾に坐す速開都比売
と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く
加加呑みてば 息吹戸に坐す息吹戸主
と言ふ神 根国底国に息吹放ちてむ 
此く息吹放ちてば 根国底国に坐す
速佐須良比売と言ふ神 持ち佐須良比
失ひてむ 此く佐須良比失ひてば 
罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め
給ふ事を 天津神国津神八百万の神等
共に聞食せと白す
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大本教(おおもときょう)
出口ナオと出口王仁三郎が創立。ナオの御筆先と称する予言を中心に教義をつくり、神人合感を説く。戦前は天皇制に反するとして布教を禁止されたが、戦後は愛善苑として再出発、のち大本教の旧名に復した。
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大山祇神(おおやまつみのかみ)
大山津見神とも書く。伊邪那岐命、伊邪那美命の御子。「おお」 はすべての意、「やまつみ」 は山を持つの意。即ち大山に住み、大山を管理する神である。その御子、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃となる。
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御蔭参り(おかげまいり)
江戸時代に、特定の年に爆発的におこつた庶民の伊勢神宮への参宮現象である。子は親に、妻は夫に、奉公人は主人に断りなく飛出し、道中は歌い踊り歩き、衣装に趣向を凝らすなど、日常の規範を越えて自由に参詣したので、ぬけまいりともいう。
慶安三年(1650年)、宝永二年(1705年)、明和八年(1771年)、文政十三年(1830年)、慶応三年(1867年)の五回が最も顕著で、宝永二年の参詣者は375万人に達したと記録に残つている。
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折敷(おしき)
桧の板を折り曲げた敷物であるので折敷という。三方と同様に使用する。
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おしら神(おしらがみ)
「おしらさま」、「おこないさま」、「おしらぼとけ」などともいう。関東、東北地方の民間で信仰する農業神、養蚕神。
※長さ30センチ位の桑の木を二本一組とし、上部に男女の顔を画き、下部に布きれをつける。之を盲目の巫女や旧家の主婦が司祭となって、おしら祭文をよむ。
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乙女舞(おとめまい)
豊栄舞(とよさかまい)参照。
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御礼(おふだ)
神符、護符(しんぷ、ごふ)参照。
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御守(おまもり)
神符、護符(しんぷ、ごふ)参照。
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御神籤(おみくじ)
神の御加護を祈る人に、教示・注意・吉凶等を与えるもので、「鬮(くじ)」 の字を使う。これは亀ト(きぼく)の名残りを示している文字である。吉と出ても油断せず、凶と出ても用心し勇気を持つことが大切である。
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思金神(おもいかねのかみ)
思兼神・八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)とも書く。高御産巣日神の御子。天照大神が天岩戸にこもり給うた時、八百万神は天之安河に集り、思金神を中心として対策をたてた。思金神は知恵の神であり、思慮分別の神である。
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折口信夫(おりぐちしのぶ)
大阪市に生る。国学院大学卒。歌人、国文学者、民俗学者で文学博士。其の詩歌は極めて優れた独自の作風を築き、其の学問は民俗学的手法を駆使してよく古典を解明、神道に関する創見を多く出した。
著書「古代研究」 「古代感愛集」
明治二〇〜昭和二八年(1887〜1953年)
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御師(おんし)
「おし」ともいう。寺社に祈願するときに仲介をする祈祷師の称。平安朝末期から発生して中世に至り、伊勢神宮・熊野三山などで大きな組織に発展し、江戸時代には全国に拡大した。
※伊勢の御師は祈祷依頼者を檀那(だんな)と称し、師檀関係を結び、毎年一定の時期に、神宮大麻並に土地の名産を持つて受持の檀那を歴訪し、又檀那が神宮に参詣するときは、之を出迎え宿泊させる等の便宜を与えた。
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陰陽道(おんみょうどう)
「おんようどう」ともいう。古代の中国の哲学。陰陽五行説(おんみょうごぎょうせつ)により自然界の災異・吉凶を説明する。推古天皇十年(602年)に朝鮮から我国に伝わり、平安中期頃から呪術的な面が強くなり、中世以降は民間にも拡まり、今日でも大安、友引、星回り、相性、生年、干支、鬼門、方違(かたたがえ)などの吉凶判断が人々の生活の中に生きている。
※陰陽五行説
天地の間には木、火、土、金、水の五つの元素があり、木から火を、火から土を、土から金を、金から水を生じる。これを相生という。そして木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋つ。これを相剋という。この相生相剋によって吉凶を判断するのが陰陽五行説である。  即ち結婚では相生のものは和合して幸福となり、相剋のものは不和で災難を受けるなどと説く。
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