綱敷天神社  | トップ | はじめに | サイトマップ | 問い合わせ |

【 綱敷天神社 簡略由緒書 】
  
(詳細な由緒については右の「あらまし」をご覧下さい)

 
 当宮は社号を
「綱敷天神社
(つなしきてんじんしゃ)
と称し、今から1200年ほど昔の弘仁十三年(822年)に、第五十二代天皇であらされた 嵯峨天皇さまが当地に御行幸あそばされ、現在の御本社のある神山の地に頓宮を構え一宿された事に由来する神社です。

 嵯峨天皇さま崩御の後の承和十年(843年)、皇子、源融公が、御追悼の為、近隣の太融寺に七堂伽藍を建立した際、嵯峨天皇さまをお祀りする社殿を頓宮跡の当地に創建。天皇の御名をとって「神野太神宮」と号しました。この神野太神宮が御本社の前身となります。また当宮は嵯峨天皇さまを主祭神として祀る神社としては全国唯一とされています。

 その58年後の昌泰四年(901年)に、後に学問の神様として慕われる「天神さま」こと菅原道眞公が、無実の罪により京都より九州大宰府までの左遷の途次、この地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められ、遥か古代、仁徳天皇の御代に「難波津に咲くや此の花冬ごもり今は春べと咲くや此の花」と詠まれた難波津の歌に思い致され、賢き御代のためしとて、紅梅をご覧になるため、船と陸とを繋ぐ艫綱を円く円座状に敷いて即席の座席とし、その上にお座りになられて紅梅をご覧になった故事から、「綱敷(つなしき)」の号が興りました。

 この時、菅原道眞公の従者、白太夫こと度会春彦の一族らをお側近くに召され、「この地に留まり、いつか戻るその日まで待つように」と御遺訓を残され、白江の姓を賜り、また自筆の御影とお座りになられた綱を与えられ、道眞公は九州大宰府へと旅立たれました。その為、当宮社殿は全て西向きに建てられており、これは道眞公のお帰りをお待ちする為ともいわれています。
白江氏は、御遺訓に従い、この地に留まり、道眞公薨去の後は紅梅の樹下に小祠を営み、号を梅塚天満宮と号し、道眞公の御神霊をお祀りしました。この梅塚天満宮が現在の茶屋町の御旅社の前身となり、またその紅梅が「梅田」の梅の字の由来となったとも云われています。

 正暦四年(993年)、冤罪の晴れた菅原道眞公の御神霊に対し、朝廷より正一位が追贈された事により、当地にも改めて社殿を建立する事となり、神野太神宮と梅塚天満宮を合祀し、神野太神宮を御本社、梅塚天満宮を御旅社としました。後に天神さまの総本社である京都の北野天満宮にならい、「北野天神」とも称されるようになります。この北野から当地の村名が北野村となり、現在の梅田周辺の繁華街を指す「キタ」の語源になったと伝えられています。
(北野は喜多埜と書かれている文献も多く、一節には北野天神と呼ばれる以前から既に喜多埜と呼ばれる土地であったともいわれています)

 鎌倉時代から戦国時代には幾度も兵火に遭いましたが、一夜にして七本の松が生い出て、その奇瑞を以って社殿を復興されるなど、霊験あらたかなる神社として近世には大阪市中の尊崇を聚める古社として知られるようになり、また道眞公ご遺愛の梅塚の紅梅は天神信仰の霊木と崇められ、その枝には霊威が籠もるともいわれました。 これらの事からそれまで埋め立てて田にした事から埋田と呼ばれた当地が、梅塚の梅という好字を当てて梅田と称されるようになったといわれています。

 江戸時代に入ってからは、大阪北郊の古社として遠近に知られ、西国街道(能勢街道、池田街道とも)に面していた事から、西国大名からの尊崇も厚く、豊後佐伯藩藩主から太刀、馬の奉納や、長州藩士からの寄進などの記録が残っています。 また大阪市中の寺子屋からの尊崇はひときわ厚く、幕末には供米は一ヶ月に126ヶ所にも上り、ほぼ大阪市中全域から尊崇を集めていた事がわかります。 当時の当宮周辺は大阪市中への入り口にあたる事から、牛を休ませる為の牛宿や、行楽や旅人のための茶屋などもみられ、春には菜種油を採取する為に多くの菜の花が植えられていた事から、一面に菜の花畑が広がっていたようです。 

明治に入って大阪駅が開業して以降、それまで鄙びた村であった当地が一気に都市化してゆき、それらの影響で御旅社は現在の茶屋町に移され、また角田町に鎮座していた歯神社も当宮が管掌するようになり、明治後年には西日本最大の都市として梅田が広く知られるようになるに当たり、当宮も梅田キタの氏神さまとしてより一層の崇敬を聚めるようになりました。

 くしくも先の大戦の折には、社殿文献等の多くは灰燼に帰しましたが、道眞公のお座りになられた御神宝の御綱と御影は幸にも戦災を逃れ、梅塚の紅梅は春を忘るる事なく今も咲きわたり、梅田キタの氏神さまとして街を行き交う人々を見守られておられます。

   

あらまし
(当社の歴史)
御祭神、御神徳
関連年表



Copyright 1998〜Now 綱敷天神社 (Tunashiki-Tenjinsya) All Right Reserved