菅原道眞公  

綱敷天神根本御影(綱敷天神社御本社蔵)

学問の神様「天神さま」こと菅原道眞公は、今から約千年ほど前、平安時代に活躍された政治家であり、また学者でありました。

道眞公は学問を家業とする菅原是善公の家に承和12年(845)6月25日に生まれました。

道眞公は幼い頃より大変に文才に優れ、3歳で和歌を詠み、5歳で漢詩を詠むなど、非常に才気豊かな子供であったと伝えられています。

その道眞公は18歳の時に文章生として文人の道に入られ、驚くべき速さで学の道を修められ、32歳の時には文章博士となりました。今でいえば32歳という若さで東大文学部の教授になられたようなものです。そして41歳の時には讃岐守(今でいう香川県知事のようなもの)に任ぜられました。当時は藤原氏などの氏族が特権階級を牛耳っていた時代で、いかに頭脳明晰であっても学者上がりの道眞公には、この知事クラスぐらいまでの官位しか望めませんでした。

しかし、この讃岐守の任期中、「阿衡(あこう)の紛議」と呼ばれる事件があり、国政がマヒ状態に陥りました。この時、道眞公はその事件の発端となっている時の太政大臣、藤原基経に諫言書を送り藤原基経の行為を諌めました。

この事件があってから、時の帝であらされた宇多天皇は菅原道眞公を国を立ち直らせる人間だと見込み、自身の側近として道眞公を重用されました。

宇多天皇は国政が一部の貴族によって私腹を肥やす格好の餌食になっている現状を何とかして改革したいと思っておられましたので、この後、同じ考えを持つ道眞公は宇多天皇の信任をバックに不正を正し、改革の豪腕をふるっていきます。このようなところに不正を許さない道眞公の姿勢が伺われます。

中でも有名なのが「遣唐使の廃止」でしょう。当時中国は内乱続きでとても文化交流の出来る状況ではありませんでした。国際感覚にも優れていた道眞公はその事をいち早く察知し、国交縮小化を決断されたのです。この決断力と洞察力の深さは現代においても政治家の鑑として敬われる由縁といわれています。ちなみにこの遣唐使の廃止がのちの国風文化を育んでいく原動力になっていきます。

しかし、この道眞公の活躍に嫉妬する人々がいました。阿衡の紛議で宇多天皇を悩ませた藤原基経の子、藤原時平率いる藤原氏と、それに連なる貴族たちです。この階級の人たちは学者からのたたき上げで上ってきた道眞公を煙たがり、また不当に得ている自分たちの権益がおびやかされると思い、道眞公が政界第二位の右大臣という要職に就かれ、また宇多天皇が天皇の位を皇太子に譲られてすぐの延喜元年(901)1月25日、突如にして「謀反の疑いあり」という無実の讒言を道眞公にかけます。

もちろん根も葉もない嘘でしたが、当時即位されて間もない醍醐天皇は藤原氏らの貴族の周到な根回しによって騙されてしまい、また道眞公御自身も藤原氏の圧力もあった為か一言の弁解をする事も出来ず、当時の辺境の地の代表とでも言うべき、九州は大宰府の大宰権帥(左遷目的の為の大宰府員外帥)に左遷させられてしまいます。失意に暮れる道眞公は「東風吹かば 匂ひおこせよ むめのはな 主なしとて 春をわするな」とその失意の思いを歌にし、京の都を去ります。

こうして京都を後にした道眞公は船で淀川を下り、淀の川尻、すなわち当時の淀川の河口部に到着します。(当時の淀川の河口は現在とは違い、いまの梅田の周辺がその位置であったろうと考えられています)

そこには太融寺という先の左大臣、源融(みなもとのとおる)公が建立された寺院があり、道眞公は参詣の為に船を降りられ歩いて寺を目指していると、その途中に一本の芳しい香りを放つ紅梅がありました。

京都を離れるとき別れを告げた梅、幼き頃に歌に詠んだ梅、道眞公はその紅梅に感極まる思いがあったのでしょうか、船の艫綱(ともづな)を手繰り寄せて即席の円座としてその上に座られしばしこの紅梅をご覧になられました。かの古代の天皇、仁徳天皇の御世に歌に詠まれた「咲くやこの花」は梅の花であったといわれています。道眞公はその古の昔の人々の気持ちを素直に感じられながら、一時の休息を得られたのです。この折に、地元の者が「ゆりわ」という器に団子を盛って道眞公に供し上げました。

無実の罪とはいえ反逆罪として左遷されるという犯罪者と同じような扱いのため、途中の食料の供給は禁止されていた為、この人々のもてなしに道眞公は感激したと伝えられています。この故事から当社は社名を綱敷天神社と称し、道眞公の御賞味されたゆりわに盛った団子は今も大事な祭典には必ずお供えされています。

(←写真は秋祭にお供えされるゆりわ団子)

こうして、人々の善意からのもてなしを受けた道眞公は親しくする者たちとも別れ、大宰府へと旅立たれます。そして苦難の旅を越えて到着した大宰府ですが、住まいとして与えられたのは京都の邸宅からは想像も出来ないような小屋のようなものでした。道眞公はそこで迎えた秋に一つの漢詩を詠んでいます。

去年の今夜清涼殿に侍り 秋思の詩篇独り断腸

恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日餘香を拝す

都を偲ぶ道眞公の心境が痛いほどにわかる漢詩といえるでしょう。しかしそんな道眞公の思いとは裏腹に、太宰府到着の2年後、再び京の都に戻る事もなく生まれた日と同じ25日の延喜三年(903)2月25五日、御年59歳にして失意のうちに薨去されてしまいます。

そしてその亡骸を墓地へと牛車にてお送りする途中、突如として棺を引いていた牛が押しても引いても動かなくなり、これは道眞公が牛に「私をここに埋めてくれ」と伝えたのであろうと理解し、その場所を道眞公の墓所と定めました。これが現在の太宰府天満宮の興りです。またこの由縁から牛は天神さまのお使いの動物であるといわれるようになり、現在も全国の天神さんには牛の像がお祀りされているのはかような理由からです。

しかし、道眞公薨去の直後から京都では天変地異が相次ぎ、また道眞公に無実の罪を着せた藤原時平をはじめそれに加担した貴族は次々と謎の死をむかえます。

民衆は、これは無念のうちに亡くなられた道眞公の祟りであるぞと考え、その声が次第に高まるにつれ、ついに朝廷も道眞公を無実の罪に落とし入れた非を認め、正歴四年(993)に正一位太政大臣を御追贈し、人間であった道眞公を天神さまとして祀るようになりました。それが京都の北野天満宮の興りです。

このように中世においては祟り神として、畏れられた道眞公ですが、これが鎌倉時代になると無実の讒言により左遷され、その失意から神となられたのだから冤罪にあった者を救ってくださる神として尊崇され、近世になると寺子屋の増加により、日本三代実録、類聚国史の編著者で、菅家文草、菅家後集(紀長谷雄編集)などの著者である菅原道眞公は文道の太祖、風月の本主とされ、寺子屋等を中心に大変崇敬され、そして現代では受験生のための学問の神様として全国一万二千社を数える「天神さま」として崇敬されています。

(民衆の手により建立される綱敷天神社(綱敷天神縁起絵巻より))

 

 

とっぷにもどる